高校からの帰り道。地元の駅に降り立つと、見覚えのある後ろ姿がベンチに座っていた。ひと月ぶりに見た姿は、髪の長さが少しだけ伸びていて。学校帰りだから当然制服を着ていて。見覚えがあるのに無くて、少し、見惚れるように立ち止まった。
 電車が発車して、乗客たちがホームを後にしていく。僕は立ち止まったまま、ヒカリちゃんの後ろ姿を見つめた。
 あの頃と同じ、ナナメ後ろ、から。
 ヒカリちゃんは、動かなかった。俯いたまま、座っている。本を読んでいるわけでも、ケータイを眺めているわけでもなく。ただ、座っていた。
 僕は、声を掛けられなかった。ただ見つめたまま、何も出来ない。
 どうしたの?って、聞けば良いのかな。
 久しぶりって、何も気付かないように言えば良いのかな。
 でも、結果は見えている。どっちも同じなんだ。
 きっと、ヒカリちゃんは笑うんだ。何も気にさせないように。気遣いをさせないように。気遣った笑顔で。
 それで、僕は何も言えなくなる。笑顔を返すだけになる。
 そうやって言い訳をして立ち止まって。でも、逃げたくなくて。中途半端に、見つめてるんだ。
 不意に、ヒカリちゃんが振り向いた。
 大丈夫だから、ごめんね。
 そう言うように、僕の目を見て、微笑んだ。
 ヒカリちゃんは立ち上がった。
 僕も後を追うように、歩き出した。

 高校からの帰り道。地元の駅に降り立って十数分。帰りたくなくて座ったベンチから、私は動けないでいる。
 家に帰っても、お兄ちゃんはいないから。
 鳴らないままのケータイを握りしめて、ひと月前にお兄ちゃんとした会話を思い出す。
 海外旅行の先で、デジモンの事件に遭遇したこと。実家に帰らず、このまま色んな人に会っていくという報告。 
 お兄ちゃんももう大学生なんだから、夏休みをどう使ってもそれはお兄ちゃんの自由。それは、わかってるの。お兄ちゃんが世界の人と関わることは、誇らしいことだし、嬉しいことでもあるの。
 でも、『実家』という言葉が、頭から離れない。もう、お兄ちゃんは家にいないって、思ってしまうから。
 …だめね。私。
 変わらないまま。甘えて頼って、守られてばかり。
 心配掛けたくなくて、本音を隠して、自分から逃げて。
 きっと、みんなには気付かれているのに。気にしてほしくないのに、それが却ってみんなに気を遣わせてしまって。
 今もそう。
 感じる視線が、迷いを伝えてくる。
 ごめんね、気を遣わせて。でも、ありがとう。
 私は、ナナメ後ろに、振り向いた。
 大丈夫だから、ごめんね。
 見守ってくれる瞳に、精一杯笑い掛けて。感謝して。
 私は立ち上がった。だから、心配しないで。
 タケルくんの視線は、変わらず私の後を追ってきた。

 階段を降りるヒカリちゃんの髪が揺れる。肩まで伸びた髪から、たまに覗く首筋。肌の色が白くて目に留まる。昔は常に晒されていたのに、隠されている所為か見てはいけないような気分になる。僕は慌てて目を逸らした。
 ヒカリちゃんは、会う度に綺麗になっていく。別々の高校に入って滅多に会えなくなったからだろうか。大人っぽくなって、近付きたいのに、近付き難くなる。
 そうして僕は、この距離を縮められないんだ。
 ヒカリちゃんの歩く速度が落ちた。僕も、速度を落として歩く。反発する磁石のように、決して、縮まらない距離。
 どうしてこんなに臆病なんだろう。どうして、踏み込めないんだろう。あの頃みたいに、隣に立って、一緒に歩けばいいのに。
 階段を降りきって、ヒカリちゃんと同じ高さを歩く。でも、視線の高さも、背の高さも、僕とは違う。僕より小さくて、その寂しそうな肩を抱きしめたくなる。
 でも、僕じゃ、駄目なんだ。その寂しさを埋めてくれるのは、きっと。ヒカリちゃんが望んでいるのは、きっと。
 太一さんだから。
 改札口が近付いてくる。定期券を取り出した手が、震えた。認めたくない、と。悔しさが込み上げてくる。
 振り払うように改札口を抜け、ヒカリちゃんを見た。苦しそうな後ろ姿。張り裂けそうな心。暗い感情。黒い感情。闇に絡みつかれたような恐怖。
 助けてって、ヒカリちゃんの心が、叫んでる。
 僕は、駆け出した。助けなきゃ、守らなきゃ。

 階段をゆっくりと降りていく。帰ろう。帰ろう。帰らなきゃ。一段一段降りる度に、髪が揺れて首筋を擦る。慣れない長さの所為か、少し鬱陶しい。でも切りたくはないの。 
 お兄ちゃんが帰ってくるまでの、願掛け。
 久しぶりに会った時に、綺麗になったって、思って欲しくて。前と違うなって、ヒカリ変わったなって。大人っぽくなったなって、そう、言って欲しいから。
 お兄ちゃんに言って欲しい言葉が、沢山、溢れてくる。
 そしてまた、私の足は、速度を落とす。今までだって、会えない日くらいあったのに。
 どうしてこんなに寂しいんだろう。どうしてこんなに、頭から離れないんだろう。前を向かなきゃいけないのに。みんなに心配掛けたくないのに。
 それでも、タケルくんの視線は、変わらない。変わらず、私を見守ってくれている。守ろうとしてくれている。
 心配、してくれているの。 
 そんなことされる資格ないのに。そんなに綺麗な悩みじゃないのに。真っ暗で真っ黒で汚い渦を巻いた感情なのに。
 お兄ちゃんに会いたい理由なんて、本当は気付いてる。
 改札口の前に来た。無意識に定期券を取り出して、改札を通り抜ける。同時に、新しい領域に踏み込んだ気がした。
 足が、重くなる。息が、できなくなる。認めたくない想いを認めようとして、苦しくなる。
 足が、止まった。帰りたくない。自分の家なのに、帰りたくないの。今まで我慢出来てたのに、感情が堰を切って溢れそう。

 気が付いたときには、僕はヒカリちゃんの右手を掴んで走り出していた。
 闇を振り切るように。僕の嫌な感情も、ヒカリちゃんの暗い感情も、全部置いていくように。
 久しぶりに、ヒカリちゃんの手を引いて走った。自分でも驚くほど、引くほど、気持ちが晴れていった。
 最悪だな、と自嘲する。気付きたくなかったのに、認めたくなかったのに。だから、逃げたのに。
 逃げられないんだ。自分の気持ちからは。 
 ヒカリちゃんへの独占欲。太一さんへの嫉妬心。対抗心。そして、勝てない、という、諦めの気持ち。
 それでも、今だけは。僕だけのヒカリちゃんだ。
 ヒカリちゃんが僕の手を強く握った。反射的に、発作的に、僕も強く握り返す。少し強すぎたかもしれない。でも、弱めるだけの余裕が、無い。
 ヒカリちゃんの手は、冷たくて、柔らかくて、そして、とても落ち着いていた。余裕が無いのは、僕だけ。
 走る速度を、少し上げる。ヒカリちゃんが転ばないように注意を払いながら。逃げるように。振り向くこともなく。
 ヒカリちゃんは、ついてきてくれた。マンションの前を通り過ぎる時も、速度を落とすこと無く、走ってくれた。
 僕は、どこに行こうとしているんだろう。どこに連れて行っても、ヒカリちゃんを笑顔には出来ないのに。僕じゃヒカリちゃんを幸せにすることは、出来ないのに。
 勇気もないし、希望もない。こんな情けない今の僕が縋れるのは、あの場所しか無い。

 不意に、右手を掴まれて、引っ張られた。
 タケルくんが、私の手を掴んで、走り出した。
 私はただ、それについていくだけ。でも、不思議と体が軽くなるのを感じたの。
 帰らなくていいんだ。
 黒い感情が消えていく。見たくない感情から、目を背けられる。
 何も解決にもならないけれど、ただ、ただ、私たちは、逃げた。
 まるで子供の頃のよう。ふたりで走ってる。手を繋いで。タケルくんは、いつも私を助けてくれる。守ってくれる。
 それに、私は甘えてしまう。
 思わず、タケルくんの手を、ぎゅっと握った。タケルくんの手が、掴む力が、強くなった。あの頃と違う、男の子の、力強さ。それでも、温かさは変わらない。
 ふたりで、遊ぼう。時間も気にせず、走って、笑おう。
 そんな、短い逃避行。ずっと、終わらなければいいのに。
 それなのに、走る速度が、少し上がった。どこかにあるゴールが近付くみたいで、不安になる。でも、すぐにその理由は分かったの。
 私の家の前を、マンションの前を、通り過ぎた。振り向かないように、気にしないように、逃げるように、走って。 
 自然と、口元が緩んだ。笑い出したいくらいだった。帰らなくていいという、子供っぽい理由で。そんなこと、今まで思ったこと、なかったのにね。それでも、今の私には、お兄ちゃんの居ない家なんて、つらいだけなのよ。

 無言のまま辿り着いたのは、海だった。
 あの日、小学生だったヒカリちゃんが消えた場所。
 そして、僕が連れて帰ってきた場所を、見つめて。
 あの時だけは、僕は僕の力で、太一さんでもテイルモンでも京さんでもなく、僕が、ヒカリちゃんを助けた。
 それは、いつになっても、何年経っても、僕の誇り。
 ずっと、ヒカリちゃんを守っていきたいと思ってた。守れると思ってた。それが証明された瞬間だったんだ。
 僕が太一さんに勝った、越えた瞬間だったんだ。
 太一さんが居なくても、僕が居るって、胸を張って。ヒカリちゃんには僕が居るって、そう思えたんだ。
 ヒカリちゃんが僕の手を握る力が、強くなった。視線を海に向けて、真っ直ぐ、前を向くように。
 大丈夫だよって、力強い気持ちが、手から伝わってきた。
 僕は、ヒカリちゃんを見た。ナナメ後ろじゃない、隣から。すぐ近くから。
 ヒカリちゃんの髪が、風に揺れる。白い肌が、夕日に照らされて眩しい。見慣れない制服に、胸が高鳴る。じっと見ていたら気恥ずかしくなって、目を逸らした。逸らした先は、オレンジ色に輝く海。
 太陽が、沈む。今日も夜がやってくる。
 たとえ太一さんが居なくても、僕がヒカリちゃんの光になれれば。太陽にはなれなくても、月になれれば。
 ヒカリちゃんの暗闇を、暗い気持ちを、黒い感情を、和らげてあげられれば。
 僕は、ヒカリちゃんの手を離して、向き合った。

 タケルくんが連れてきてくれたのは、小学校の前だった。
 あの日、私が消えた場所。タケルくんの言いたいことが、わかった気がした。
 タケルくんは海を見た。私も同じように、海を見つめる。
 あの時の私は、お兄ちゃんだけを頼っていた。あの時も、同じ場所に居ないことを、嘆いていた。
 それでも、タケルくんは、来てくれた。私が願ったから、望んだから。助けに来てくれた。
 今もきっと、タケルくんは私を助けようとしてくれてるのよね。守ろうとしてくれてるんだよね。
 お兄ちゃんが居なくても、僕が居るよって。
 自然と握りしめた手。ありがとうって、伝えたくて。この手のおかげで、私は大丈夫になれる。暗い気持ちから解放されて、前を向けるの。
 私も、君に元気を、勇気を、光を伝えられればいいのに。
 そう思って、タケルくんの手を握ったの。もし君が寂しくなった時には、私を呼んでね。今日みたいに、手を繋いで、走って、同じものを見て、笑おう。
 海に反射する夕日が眩しい。沈む太陽。夜が来るのね。
 お願い、太陽さん。沈まないで。夜の闇は、ひとりの夜は、まだ、怖いの。
 前を向いた次の瞬間には俯いて。私の心は波模様。満ちては引いて、心を占める感情が、変わっていく。
 でも大丈夫。この手が繋がっていれば。戻ってこれる。帰ってこれる。私の帰る場所に。居たい場所に。
 不意に、タケルくんが、手を、離した。

「好きだよ、ヒカリちゃん」
 言えた。
 なぜか、言えてしまった。
 言うつもりも、覚悟も準備もないのに。
 ヒカリちゃんの瞳が、揺れている。瞬きもせず、僕をじっと見ている。少し開いた口と、風になびく髪。時が止まればいいくらい綺麗な姿なのに、時間は待ってくれない。
 ヒカリちゃんの答えが、怖い。反応が、怖い。何も言ってくれないことが、怖い。
 君は今、何を考えているんだろう。困ってるよね。悩んでるよね。何を言っても僕を傷つけるって、わかってるんだよね。だってそれは、僕だって知ってる。
 ヒカリちゃんが、目を逸らした。初めてだ。ヒカリちゃんのほうが先に逸らすのは。逸らした先は、沈む太陽。
 僕は、目を伏せた。わかってたよ、君の答え。君が誰を見ているか。わかっていたのに、泣きたくなる。涙が、悔しさが、哀しさが、込み上げてくる。
 身を引き裂かれそうな痛み。これで終わりじゃないのに、光が見えない。目の前が暗くなっていく。息ができなくなっていく。闇に沈むみたいに。絶望の渦に呑まれていく。
 僕は、希望なのに。
 風が頬を撫でる。波の音が止まらない。時間は止まってくれない。涙を堪える時間が欲しいのに。今すぐこの場を去りたいのに、足は動かない。逃げたくない。でも、向き合えない。地面を見つめたまま、僕は動けない。
 視界の端で、ヒカリちゃんの制服が風に小さく揺れた。

「好きだよ、ヒカリちゃん」
 唐突な言葉に、息が止まった。
 じっと見つめられて、その瞳が、好きの意味を伝えてくる。守りたい。そばに居たい。触れたい。一緒に居たいと。
 タケルくんの瞳が、揺れている。不安そうに、怯えるように。口をぎゅっと結んで、息を止めて。風が金色の髪を撫でて、とても綺麗に煌めいた。ずっと見ていたいほどに。
 でも、私にそれを言う資格はない。
 タケルくんが私のことを考えてくれているあいだ、私はずっと、お兄ちゃんのことを考えていたから。
 お兄ちゃんのことを想っているのにタケルくんにそばに居て欲しいなんて。そんな都合のいいこと、言えないよ。
 タケルくんの目を逸らして、太陽へと視線を移す。
 沈んでいく太陽。いなくなったお兄ちゃん。夜の間だけ、タケルくんに守られて、月に照らされる。朝が来たら、また、太陽の光を浴びて。お兄ちゃんの帰りを待つ。
 そんなの、許されるわけない。でも、願ってしまう。
 真っ黒な気持ちが、心を支配していく。闇に沈むみたいに、自分の心が染まっていく。
 酷くて汚くて醜くて。自分の中の闇を、全て消したい。
 私は、光なのに。
 自分への怒り。拒絶。そんな感情が渦巻いて、嫌になる。どうして私は、こんなに弱いのかな。守ってもらわないと、駄目になっちゃうのかな。
 本当は、早くこの場を去らないといけないのに。タケルくんを、私から解放してあげないと、いけないのに。
 
 僕はいつまでここに留まっているんだろう。早く顔を上げて、笑って、安心させてあげたいのに。こんなふうに固まってちゃ、ヒカリちゃんを不安にさせるだけなのに。
 でも、僕にはもう、出来ない気がする。何を言っても、ヒカリちゃんを照らすことは出来ない気がする。
 諦めちゃダメなのに。諦めることは、僕らしくないのに。
 それでも、希望が見えない。僕の希望は、ヒカリちゃんだったんだ。
 光を守ること。それそのものが、僕の希望だったんだ。
 それなら、今こそ僕がそばに居ないといけないのに。
 ヒカリちゃんは、闇に呑まれそうになっているんだから。 
 太陽は、沈もうとしている。僕は月にすらなれなかったけど、それでも、ヒカリちゃんを暗闇に置いていくことなんて、できない。
 少しだけ、希望が見えた気がした。僕には何も出来ないけれど、それでも、そばに居ることはできる。
 君が笑っていればそれでいい。なんてことは、言えないけれど。それでも、そばに居たいんだ。
 触れることも、見つめることも、できなくても。
 隣にいることは、できるから。
 真っ黒な気持ちを白く塗り潰すように、僕は決意した。
 ごめんね、諦めが悪くて。
 本当の気持ちを押し殺してでも。嘘をついてでも。
 君の隣に居るよ。
 この場所は、譲りたくないんだ。
 僕は、顔を上げた。

 タケルくんはそれでも、私のそばにいてくれた。
 私の答えを待ってるのかな。でも、もう伝わってしまってる気がするの。
 タケルくんのことが嫌いじゃないこと。大切だってこと。
 そして、それでも、お兄ちゃんのことを想ってること。認められない想いがあるって、こと。
 家族として以上に、お兄ちゃんのことが大好き。お兄ちゃんが誰を好きになっても、愛しても。たとえお兄ちゃんにとっての『いちばん』じゃなくても。
 それでも私は、お兄ちゃんが、いちばんなの。
 私は、タケルくんを見た。
 タケルくんの思いには応えられないけれど、でも。
 私はちゃんと、自分の気持ちを、言わないといけないから。それが、タケルくんに対しての誠意だと思うから。
 タケルくんは、目を伏せたまま、顔を上げてくれない。
 ごめんね。
 ごめんね。
 心の中で、何度も謝った。でも、言葉に出来なかった。声に出したら、涙もこぼれそうで。
 君が絶望してしまったのが、わかったから。希望を失くさない君が。真っ黒な心になってしまったの、わかるの。
 ごめんね。ごめんね。
 タケルくんは絶望しない。暗闇の中で光ってくれる。そんなこと思って、ごめんね。
 こぼれそうな涙を抑えて、私は、深呼吸をした。
 タケルくんが、顔を上げた。

「お兄ちゃんが、好き」
 上げた顔の先で、ヒカリちゃんは、僕に言った。
 潤んだ瞳。噤んだ唇。赤い頬。震える肩。華奢な体が風に揺れて、折れてしまいそう。
 抱きしめたい衝動と裏腹に、僕の体は固まった。
 いま、ヒカリちゃんは、何て言った?
 お兄ちゃんが、好き。
 頭の中で反響する。嫌だ、受け容れたくない。
 お兄ちゃんが、好き 
 繰り返し、声が響く。黒い雲が流れるように。心の中が黒くなる。 
 お兄ちゃんが、好き。
 その言葉は、いつも僕が発していたものと違う。聞いていたものとも違う。響きが、声が、違う。
 小さいけれどしっかりした強さで。真っ直ぐとした想いを乗せて。優しい響きと、甘い声。頭がくらっとする。
 言わせてしまった。
 いちばん、聞きたくなかった言葉を。
 きっと、口にしたくなかったであろう言葉を。
 ヒカリちゃんはきっと、初めて、自分の気持ちを声に出したんだ。きっと、取り返しのつかない自覚を、させてしまったんだ。 
 僕の考え過ぎかもしれない。思い込みかもしれない。
 でも、ヒカリちゃんの瞳から。
 ひとつぶの、涙がこぼれたんだ。
 泣かせたくなんて、なかったのに。

「お兄ちゃんが、好き」
 言ってしまった。タケルくんの目を見て。
 認めたくなかったことを、始めて、言葉にした。
 今まで言ってきた『好き』とは明確に異なる意味。
 いちばんでいたい。いっしょにいたい。触れていたい。私だけを見てほしい。幼い頃からの想いを、すべて込めて。
 私は、タケルくんに告げた。
 タケルくんは、じっと私の目を見つめ返した。
 でも、その瞳は、何も見ていない。真っ暗で、真っ黒。
 タケルくんの心の中で、闇が渦巻いていく。からっぽの人形のようになっていく。怖くてつい、手を伸ばしたくなった。
 でも、ダメ。その闇に落としたのは、私なのに。手を差し伸べるなんて、そんなこと、できない。タケルくんの光になれないのに、隣にいるよなんて、言えないよ。
 私は、伸ばしかけた手を引いた。いつも、タケルくんと繋いでいた手を。他の男の子とは、繋ぐことのない手を。
 ぞくっと、背筋に何かが走った。電流のような、悪寒のような。気付いてはいけない気持ちが。 
 私が好きなのは、お兄ちゃん。それは、揺るがないのに。
 タケルくんも、好き。
 きっと、みんなと違った意味で。トクベツ。
 そんなの、だめ。そんなずるいこと、だめよ。
 自分の中の汚い感情を追い出すように、涙がこみ上げてくる。私に泣く資格なんかないのに、止められない。
 頬を伝う涙に、どうしようもなく、嫌悪した。

 こぼれた涙は夕日に煌めいて、とても綺麗で、儚くて。
 ゆっくりしっとりと、頬を流れた。
 僕はその涙を拭いたくなった。一瞬の躊躇。でも、僕はその衝動には抗わなかった。
 そっと右手で涙を拭うと、ヒカリちゃんがびくりと体を震わせた。足を少し後ろに下げて、逃げるような怯えるような体勢になって。でも、ヒカリちゃんは逃げなかった。
 逃さないよ。
 君が逃げないのなら、僕は隣に居続けるから。
 君が誰を見ていても。誰を想っていても。耐えてみせる。
 ヒカリちゃんの瞳からまた、涙がこぼれた。
 もう泣かせない。絶対に泣かせない。僕が君を守るんだ。
 僕は、ヒカリちゃんの手を握った。ヒカリちゃんは、振り解かなかった。冷たい手。温めてあげたいけど、僕の手も、冷たかった。
 夕日が、沈んでいく。空が次第に暗くなり、夜が来る。
 僕らも闇に沈んでいく。きっと、終わりのない闇に。
 君があの人を想っている限り。僕が君を想う限り。 
 この関係は変わらないんだ。
 一方通行の想いたち。それでも僕は、君に寄り添っていたいんだ。君が、その恋を失う時まで。
 それまでは、せめて『にばんめ』になれるように、君を守っていくよ。笑顔には出来なくても、泣かせないように。 
 ねえ、ヒカリちゃん。
 こんな僕で、ごめんね。
 君を泣かせているのは、僕なのにね。 

 早く泣き止まなきゃ。涙を隠さなきゃ。目を隠したいのに、逸らしたいのに、離せなかった。
 タケルくんの目に、光が戻っていくのを感じたから。
 徐々に、その瞳に、私が映っていく。戻っていく。
 すっと、タケルくんの手が伸びて、私の頬に触れた。いつもと違う、指先。涙を掬って、私の涙が、タケルくんの指に、滲んでいく。タケルくんの顔が、夕日に艷やかに照らされて。私は、動けなかった。
 息を忘れるような時間の中で、心臓が高鳴っているのに気付いた。
 タケルくんが好き。そう思う度にまた、涙がこぼれる。
 つらくて、悲しい気持ちで。張り裂けそうになる。
 タケルくんは、私のことを守ろうとして、手を握ってきた。包み込む感じは、あの頃と違って、大きくて、そして、冷たい。こんなに冷たくしてしまったのは、私のせいね。
 タケルくんが好き。そう言ったら、すべてはあたたかく生まれ変わるのに。言えないの。
 だって、君が望んでいるのは、こんな形の言葉じゃない。
 私の中には、お兄ちゃんがいるの。いちばんに。ずっと。
 朝には起こしに行って、最初におはようを言う。帰宅したら真っ先におかえりを言って、寝る前には必ずおやすみを言うの。そんな当たり前のいちばんが、大好きなの。
 思い出すだけで、顔が綻んでいく、幸せになっていく。
 ねえ、タケルくん。
 こんな時なのに、笑って、ごめんね。
 私は、君の笑顔を、奪ってるのにね。
 
 太陽が、沈んだ。月が、ぼんやりと光を放つ。
 風が冷たく吹いて、ヒカリちゃんが寒そうに見えた。
 そろそろ、帰ろうか。
 泣きたい気持ちを遠ざけて、僕はまた、ヒカリちゃんとしっかりと向き合う。
 ヒカリちゃんは、もう泣いてなかった。赤い目で、赤い顔で、微笑んでいた。
 いつものヒカリちゃんだ。
 太一さんを想っているヒカリちゃんだ。
 出会った頃から、ヒカリちゃんは、太一さんを見ていた。
 僕も憧れていたから、わかる。だからこそ、太一さんの妹のヒカリちゃんを、守りたかったんだ。
 でも、いまはもう違う。ただ純粋に、隣に居たいんだ。
 だから。
 帰ろうか。
 僕は、ヒカリちゃんの手を引いた。ヒカリちゃんと同じように、微笑んで。すべてを、隠して。
 僕は、歩き出した。あの頃のように。何もなかったように。ヒカリちゃんも、歩き出した。何も変わらないように。
 僕らは、何も話さなかった。声を出したら、何かひとつでも発したら、壊れてしまいそうで。
 ただ、懐かしの通学路を、ふたりで歩く。手を繋いで。違う制服で。傍から見たら、仲の良いデート風景。
 でも、付き合ってないんだ。
 これからも、付き合うことは、無いんだ。
 それでも、この場所は、誰にも譲らない。

 太陽が沈んで、夜が来た。暗い世界に、波の音が響く。
 風が強く吹いて、寒さを運んできた。
 そろそろ、行かないとね。
 ずっとここに居たいけれど、もう行かないと。帰りたくないけれど、でも、ずっとここにいるわけには、いかない。
 これ以上タケルくんに付き合わせたくないもの。迷惑を掛けたくないもの。だから、いつもどおりに笑おう。 
 タケルくんも、いつもの笑顔だった。
 私の、お兄ちゃんへの想いを知っているのに。
 何も知らないように、笑ってくれるの。
 その笑顔の裏に、沢山の絶望と黒い感情を隠して。それでも、私のために、笑ってくれている。タケルくんのためにも、私はこの気持ちと向き合わないといけない。
 だから。
 帰ろう。
 タケルくんは、私の手を引いてくれた。小さい頃と同じように。いつも、帰る場所へと、送り届けてくれる。
 タケルくんは、ゆっくりと歩き出した。私も当然のように、隣を歩く。何もなかったように。
 一歩進む毎に、家が近付く。お兄ちゃんの居ない家が。でも、隣にはタケルくんが居る。それだけで、大丈夫だと思える。そんな自分が、汚くて、醜くて。
 このまま、何もなかったことにしていいのかな。
 タケルくんの思いを、優しさを、利用して。甘えて。
 今までと同じように、過ごしていく。
 そんな都合の良いこと、認められるわけ、ない。

 分かれ道の交差点に来た。信号が赤になり、足を止める。
 別れたくない、離れたくない、往生際の悪い気持ちが湧き上がる。繋いだ手に、力が込もった。 
 ヒカリちゃんも、握る力が強くなった。
 どうしたんだろう。ヒカリちゃんの顔を見た。目が、じっと僕を見ている。
 何かを決意した瞳。小さく口を開いては、また、閉じて。
 その仕草が妙に艶めかしくて、抑えていた感情が噴き出しそうになる。隣にいるのって、こんなにつらかったっけ。
 ヒカリちゃんは何も言わずに、言葉を探しているみたいだった。どうしよう、何をすればいいのかな。
 僕がヒカリちゃんを守ると何度も思った。でも、ヒカリちゃんが望むことをわかっているとは、言えない。
 唯一わかっていることは、ヒカリちゃんにとっての特別は、太一さんだけってこと。
 唐突に、ヒカリちゃんは僕の手を離して、走り出した。驚いたけど、信号は青。よかった、危険は無い。
 でも、どうして。 
 横断歩道を走るヒカリちゃんを、追いかけようとして、足が止まる。
 初めて、ヒカリちゃんから、手を離された。
 初めて、拒絶された。離れていく。ヒカリちゃんが。
 嫌だ。嫌だ。行かないで。いかないで。
 お願い、となりにいて。どこにもいかないで。
 そばにいて。
 いっしょに、いてよ。

 ゆっくり進んでいた足が、止まった。赤信号。危険の合図。このまま進んではいけない。私はちゃんと、タケルくんに言わないと。繋いだ手に、力を込めた。
 タケルくんの手も、握る力が強まった。今しか、ない。
 私は、タケルくんを見つめた。すぐに、タケルくんと目が合った。
 言わないと。そう思うのに、言葉が出ない。何を言いたいのかが、言えばいいのかが、わからない。
 全部伝わっているのに。知っているのに。今更、何を?
 お礼を言ってどうするのかな。謝っても意味は無いよね。
 でも、タケルくんが私に望むことは、私には叶えられない。
 このまま、何もなかったふりなんて、できない。
 もうこれ以上、タケルくんを傷つけたくない。
 それなら、私にできることは。
 信号が、青に変わった。
 私は、手を離した。
 初めて振り解いたタケルくんの手。突き放すようにして、私は、駆け出した。
 タケルくんを、幸せにするために。私じゃ、君を幸せにできないから。
 これ以上はもう、いっしょにいられない。
 横断歩道を渡りきって、振り向いた。
 タケルくんは、そのままの場所で、私を見ていた。
 立ち尽くすように、唖然とするように。
 その瞳が、小さな子供が懇願するように、私を見ていて。
 心臓が、ぎゅっとした。

 青信号が点滅して、我に返った。大丈夫。ヒカリちゃんはまだそこに居る。
 ヒカリちゃんの口が、何かを言うように動いた。
 たぶん、ありがとうって。言ってた。
 ありがとうって、なんだろう。
 ヒカリちゃんは、頑張って微笑んでいた。
 泣きそうな顔で笑っていた。
 ああ、そうか。
 さよならって、ことなんだ。
 信号が赤に変わる。僕は、動けない。涙も、こぼれない。
 思考が追いつかない。考えたくない。
 どうして。理由は、わかっている。
 どうして。僕じゃだめだから。
 どうして。だめになるから。
 どうして、僕じゃだめなんだろう。
 考えたくない。でも、頭の中でぐるぐると廻る。
 答えの決まったことを。一方通行の一本道を。
 僕はただ、そばに居たいだけなのに。守っていきたいだけなのに。
 ヒカリちゃんは、俯いたまま、顔を上げない。
 今すぐそばに行って、抱きしめたくなるのに。
 僕は、動けない。僕じゃ、幸せにできない。
 わかってた、ことなのに。
 もう、いままでみたいに、いっしょにいられないんだね。
 ヒカリちゃんは、歩き出した。
 僕はただ、見つめていた。これまでみたいに。

 青信号が点滅する。もう、戻れない。
 私は、タケルくんに、さよならを告げた。
 ありがとう。そう、口を動かして。
 私は、タケルくんにたくさん守ってもらった。支えてもらった。だから、タケルくん離れ、しないとね。
 私はこれからも、お兄ちゃんを想っていく。いつまで想っているのか、わからないけれど、きっと、ずっと。
 だから、タケルくんは、他にいい人、見つけてね。
 彼女が出来たら寂しいけれど、君が笑っていれば、それで嬉しいから。
 私もいつかまた、誰かを好きになるのかもしれない。
 でも、きっとお兄ちゃんを忘れられない。想いを忘れきれない。
 だけど、君は私を忘れていいからね。
 私を忘れて、誰かと幸せになってね。
 また涙が流れそうになって、私は、目を瞑った。
 この目を開けたら、もう、タケルくんの目を見ない。見つめ返さない。振り返らない。
 俯いて、涙を止めて、深呼吸。
 さよなら。
 地面にそう呟いて、私は、目を開けた。
 下を向いたまま、家への道を、歩き出す。
 一歩、踏み出す度に、足が重くて、でも、早くこの場を離れたくて。
 私は、進んだ。
 道路の向こうから、視線を、感じながら。

 何度目の赤信号だろう。僕はずっと、ただ、立っていた。
 日が沈んで、暗い世界で。赤い光が、ぼんやりと映る。
 風が吹いても、もう寒くない。何も感じない。 
 帰らないといけないのに。動かないといけないのに。
 頭が働かない。現実を受け容れたくない。
 ほんとうに、もう、会えないのかな。
 そんなことないのに。会う機会も、みんなで遊ぶ機会も、きっとあるはずなのに。
 その時僕は、どうしてるんだろう。
 笑ってるのかな。笑えてるのかな。
 いつもどおり。昔みたいに。子供の頃みたいに。
 みんなに気付かれないように、笑えるのかな。
 ああ、嫌だな。
 きっとみんな、気付いてしまう。
 ヒカリちゃんがどれだけいつもどおりでも。
 僕がどれだけ笑顔でいても。
 きっと、気付かれてしまう。何かあったって、思われてしまう。
 それでも、誰も何も訊かないんだ。
 そんなの、耐えられない。いつもどおりで、いたいのに。
 楽しかったあの頃のままで、いたいのに。
 未来への希望ではなく、過去への思い出に縋って。
 だから、僕は動けないんだ。
 進む先が、わからないから。見えないから。
 いつも、ヒカリちゃんを見て、追いかけてたから。
「タケル、どうしたの?」

 タケルくんから逃げるように、辿り着いた家。
 息を止めて、重いドアを開けて。玄関の靴を見て、お兄ちゃんが帰ってないことを、受け入れて。
 息を吐きだして、ドアを閉めた。バタンと、音が響いた。
 私は、崩れ落ちるように、玄関にしゃがみこんだ。
 溢れそうな涙を、必死で抑えて。
 タケルくんの顔が、よぎる。あんなに哀しそうな顔、させちゃった。
 つらくて、哀しくて。こんな時はいつも、お兄ちゃんにそばにいてもらった。会いたいよ、お兄ちゃん。 
 ケータイを取り出して、見つめる。今日も鳴らなかった。
 会いたいよ、お兄ちゃん。
 お兄ちゃんのいないリビングに、行きたくないよ。
 ただいまを、言えなくて。おかえりを、言いたくて。
 ただ、しゃがみこんで、動けない。
 このまま、闇に溶けてしまいそう。
 誰か助けて。と、また、誰かに甘えてしまう。
 それじゃ、ダメなのに。だから、だから、タケルくんを、突き放したのに。 
 お兄ちゃんに頼らない。タケルくんに甘えない。
 そんな私に、なりたいのに。輝きたいのに。
 光が、消えていく。闇に、侵されてく。
 自分という名の闇に、呑まれていく。
 希望が、消えてしまったから。
 私の光は、タケルくんの希望を、映してただけなんだ。
「ヒカリ、どうしたの?」

 見上げると、パタモンが、飛んでいた。
「遅いから探しに来ちゃったよ…どうしたの?」
 首を傾げて、パタモンは僕の顔を覗き込んだ。羽根がパタパタと音を立てる。
 僕は、パタモンを抱きしめた。
「…タケル?」
 柔らかくて、あたたかくて。
 涙が、溢れた。
 こんな、街中なのに。格好悪い。でも、涙は止まらない。
「よし、よし」  
 パタモンは、羽根で僕の頭を撫でながら、笑った。
 何も訊かずに、ただ、あたためてくれた。
 パタモン、ありがとう。
 僕ね、フラれちゃったんだ。
 ヒカリちゃんは、太一さんのことが好きなんだって。
 僕じゃ、ダメなんだって。
 でも、諦めたくない。守っていきたいんだ。
 ヒカリちゃんを、笑顔にしたい。元気づけたい。
 ヒカリちゃんの、希望でありたい。
 ずっと、いっしょにいたい。
 そばにいたい。となりにいたい。笑っていたい。
 いろんな想いが溢れてきて、涙が、止まらない。
 何もなかったことにしてでも、そばにいたかった。
 ヒカリちゃんを傷つけてでも、そばにいたかった。
 たとえ報われなくても、想い続けていたい。
 でも、それは、ヒカリちゃんも同じなんだ。

 顔を上げると、テイルモンが心配そうな顔をしていた。
「なかなか入ってこないから…何かあったの?」
 私に近づいて、テイルモンは、優しい声で、言った。
 しゃがんだ私と、同じくらいの、目線。
 私は、テイルモンを、抱きしめた。
「…ヒカリ?」
 優しい声。あたたかな体。光が、流れてくる。
 涙が、溢れた。
 黒い感情が、闇が、混ざり溶け合って、消えていく。
「大丈夫よ、ヒカリ」
 テイルモンは、私の背中を、ポンポンと、撫でてくれた。
 あたたかくて、私は、さめざめと、泣いてしまった。
 ありがとう、テイルモン。
 私ね、お兄ちゃんが好きなの。
 言えないけれど、ずっと、ずっと、前から。
 でもね、今日、初めて言ったのよ。タケルくんに。
 タケルくん、私のこと、好きだって。言ってくれたの。
 嬉しいよね。くすぐったいよね。
 でもね、私、お兄ちゃんが好き。
 タケルくんと手を繋ぐのは、大好きよ。
 でも、お兄ちゃんと手を繋げたら、街を歩けたら。
 そう思うだけで、涙が出るの。
 私、変よね。でも、タケルくんは、わかってくれた。
 それでも、そばにいようと、してくれたんだ。
 思いが報われなくても。
 そっか。私と、同じだったんだ。

 ヒカリちゃんは、太一さんが好き。
 それは、僕がヒカリちゃんを想うのと、同じように。
 ヒカリちゃんも、叶わぬ恋をしているんだ。
 きっと、僕以上に、つらい想いのはずだ。
 報われることがないのに、ずっと近くにいる。
 伝えてしまうことの、決して出来ない想い。
 太一さんは兄だから、家族だからって、家族愛の延長だって、どこかで思ってた。
 でも、違う。ヒカリちゃんの言う『好き』は、僕と同じ。
 僕は、息を吐いた。顔を上げて、夜空を見た。星の見えない、暗い空。月は、雲に隠れている。光が、無い。
 どれだけつらかったろう。どれだけつらいんだろう。
 隣にいるのに、近くにいるのに、絶対に報われないだなんて。隠さなきゃいけないだなんて。
 みんなからの視線とか、気遣いとか、そんな問題じゃなくて。秘めなくちゃいけない、そんな想い。
 そんな気持ちを、僕に言ってくれたんだ。
 言わせて、しまったんだ。
 僕はまた、泣いた。まだ、泣いていた。
 これが何の涙なのか、もう、意味もわからない。
 ヒカリちゃんへの、届かぬ想い。
 ヒカリちゃんの、太一さんへの、届かぬ想い。
 どちらも同じで、どちらもうまくいかなくて。
 どうして、幸せになれないんだろう。
 君には、幸せになってもらいたいのに。
 僕じゃ、君を幸せにできない。

 タケルくんは、私のことが、好き。
 それは、どこかで、わかっていた。
 でも、その気持ちが、私と同じなんだってこと、やっと気付いたの。
 タケルくんは、私がお兄ちゃんを想うのと同じように、私のことを、想ってくれている。
 そばにいたくて、笑っていたくて、触れていたくて、見てほしくて、いちばんで、いたい。
 きっと、同じ。タケルくんの言う『好き』は、私と同じ。 
 繋いでた手が、熱い。そんな気持ちだったんだと、今になって気付いて、心臓が跳ねる。
 でも、私は、その想いに応えられない。応えたくない。
 私は、お兄ちゃんへの気持ちに、嘘をつきたくない。
 本当のことは、絶対に言えないから。だから、自分だけは、その気持ちを、偽りたくないの。
 タケルくんのことを思えば思うほど、お兄ちゃんへの想いが強くなる。会いたくなる。触れたくなる。
 この想いを、ずっと、ずっと、持っていたい。
 たとえ、どれだけ黒い感情に苛まれたとしても。
 それが、タケルくんへの誠意であり、私の決意。
 私は、想い続けるよ。お兄ちゃんを。
 幸せになれなくても、他の人を想うより、幸せだから。
 もし、タケルくんが同じように私を想ってくれてたら。
 それはとても、哀しくて、つらい。 
 君には、幸せになってもらいたいから。
 私じゃ、君を幸せにできないから。

「タケル、風邪ひいちゃうよ?」
 寒さも感じていなかった僕に、パタモンは言った。体を震わせて、くしゃみをして。
「ごめんね、パタモン」 
 ティッシュを取り出して、パタモンの顔を擦って。僕は笑った。自分の声が、とても枯れていた。
「だいじょうぶ。タケルは、もう、平気?」
 パタモンも、ティッシュで僕の顔を擦った。ちょっと痛かったけど、心が和らいで、落ち着いてくる。
「うん」
 短く返して、ティッシュをしまって。僕は、深呼吸した。
 冷たい空気。それが少し、心地良い。体が震えるけど、もう、泣かないよ。
 ヒカリちゃんが、泣かないのなら。僕も泣かない。
 ヒカリちゃんを、泣かせないためにも。僕は泣かない。 
 君が太一さんを想い続けるのなら、僕も君を想い続ける。
 これからもずっと。変わらない眼差しを君に送り続ける。
 でも、今日のことを、無かったことには、しないよ。
 だからもし、君が太一さんのことで何かあったら。真っ先に僕に話してほしい。相談してほしい。
 何があっても、僕は君の力になるから。君を守るから。
 君が僕の気持ちを知っていたとしても。気にせず、接してほしい。わがままかな。身勝手、だよね。 
 でも、仕方ないんだ。離れたくないから。
 たとえ、希望を失っても。光が見えなくても。
 僕には、君が、必要だから。

「ヒカリ、そろそろお母さん、買い物から帰ってくるわよ」
 テイルモンが、気を利かせて教えてくれた。玄関でしゃがみこんでたら、お母さん、心配しちゃうものね。
「ありがとう、テイルモン」
 抱きしめていた手をほどいて、私は、涙を拭った。少し笑ってみせたけど、これは、つよがり。
「何かあたたかいものでも、飲みましょう」
 テイルモンは、笑顔で提案してくれた。リビングに行くつらさが、和らいでくる。
「うん」
 私は、靴を脱ごうとして、バランスを崩した。持っていたケータイが落ちる。少し、足が痺れちゃってたみたい。
 格好悪くて、なんだか恥ずかしくなって、笑った。
 昔よく、タケルくんと遊んでた時、転んだ後は、いつもこんな感じだった。互いに恥ずかしくなって、苦笑いして。
 そんな懐かしい思い出を、噛み締めて。また、そんな思い出話ができるようになりたいと、思ってしまって。
 タケルくんを、突き放したのに。
 あの顔が、忘れられない。絶望を与えてしまったことが、消えないの。
 でも、本当は、昔みたいに遊びたい。笑い合いたい。
 タケルくんの気持ちを知ったのに。気づかなかったふり、したいの。わがままかな。身勝手、だよね。
 タケルくんを傷つけたのは、私なのに。離れたのは、私なのに。それなのに、まだ、タケルくんのこと、考えてる。
 きっと、君が、必要だから。
 
 僕は、ケータイを取り出した。
 ひとつだけ、ヒカリちゃんに伝えたくて。
 震える手で、メールを打つ。
[これからも、よろしくね]
 君は、どう受け取るかな。距離を置かれたらどうしよう。
 怖くて、送信ボタンが、押せない。
 でも、言わないと、いけない。今言わないと、伝えないと。次に会った時に、僕らはきっと、ぎこちなくなる。
「…送らないの?」
 パタモンが、僕の顔とケータイの画面を交互に覗き込む。
「ぼくが押そうか?」
 気遣いありがとう。でも、僕が押さないと、意味が無いから。
 僕は、送信ボタンを、押した。
 メールを送信しました。その画面に、鼓動が早くなる。
 深呼吸して、画面を、眺めた。怖くてケータイをしまいたいのに、しまいたくない。
 ヒカリちゃん、見てくれるかな。拒否はされてないみたいだけど、読まずに捨てられちゃったら、どうしよう。 
 僕はこれからも、友達でも、仲間でも、肩書きはなんでもいいから、近くにいたいんだ。
 隣じゃなくてもいい。ナナメ後ろからで、構わない。
 ただ、ヒカリちゃんに何かあったら、守れる場所に。守れる所に、いたいんだ。
 ヒカリちゃんは、それを許さないかもしれないけど。
 僕は、都合よく利用されるだけでも、良いから。

「ヒカリ?」
 テイルモンが、心配そうに覗き込んできた。私はまだ、家に上がれないでいる。
 堂々巡りの考えが頭を占めて、答えが出せない。
 リビングに行って、お兄ちゃんが居ない現実を、受け容れて、また、待つ日々を送る。それで、いいのに。
 そんな、未来も希望も光も無い道を選んで、いいのかな。
 これからまた、自分の気持ちを押し殺して。隠して、白く、塗り潰して。そんなふうに、自分に嘘、重ねるのかな。
 まるで、お兄ちゃんへの想いを選ぶか、タケルくんへの思いを選ぶかで、迷うように。気持ちが、揺れ動く。
 そんなの、決まってるのにね。それなのに、タケルくんに失礼なことばかり、思ってしまうの。
 ケータイが、光った。マナーモードが、震えてる。
 メールだ。お兄ちゃんから?
 ありもしないのに、一瞬の期待。急いで手に取って、画面を見た。タケルくんからだ。
 タケルくん、から…?
 さっき、ほんの、ついさっき、あんなに、傷つけちゃったのに。
「…見ないの?」
 テイルモンが、躊躇しながら、聞いてきた。
 怖いの。
 さよならだったら、どうしよう。
 私がそれを望んだはずなのに。
 タケルくんはいつも、私の望みを叶えてくれるから。

 ヒカリちゃんはきっと、僕のことは許してくれると思う。 
 ただ、自分を許せないんだと、思う。
 自分は太一さんが好きなのに、僕の気持ちに甘えるのが。甘えてくれれば、僕は嬉しいのに。
 でも、ヒカリちゃんをそんな悪い女の子にしちゃ、だめだよね。たとえ、誰にも気付かれない真実だとしても。
 風が吹いて、パタモンが、震えた。
「ごめんパタモン。大丈夫?」
 いつまでもこんなところに立ち尽くしてて、寒いよね。ぎゅっと抱きしめて、パタモンを温めた。
「苦しいよ、タケル」
 膨れるパタモンに苦笑いして、力を緩めた。抱きしめるとわかる。僕が、大きくなったことが。
 小さい頃は、こんなふうになるなんて、思いもしなかった。ずっと一緒にいられると、思ってた。
 ヒカリちゃんは、どんな結論を、出すんだろう。
 たとえヒカリちゃんがどう答えても、僕は。
 ケータイが、震えた。
 メールが、届いた。ヒカリちゃんから。
 僕は、息を呑んで、目を瞑って、メールを、開いた。
 恐る恐る、目を開ける。ぼやけた文字の輪郭が、次第にはっきりしていく。
[こちらこそ、よろしくね]
 よかった。よかった。伝わった。そう、思った。
 僕は、ホッとして、笑った。
 よかった。これからも、一緒にいられる。

 怖ず怖ずと、メールを開いた。そこには、たった一文だけ、書かれていた。絵文字も顔文字も記号も、何もない。 
 それでも、まっすぐに、心に刺さったの。
[これからも、よろしくね]
 今日のことを、忘れずに。それでいて、いままでどおりに。私の願いを、本当の望みを叶えるように。
 タケルくんは、どこまでも、私のことを考えてくれた。
「ヒカリ、大丈夫?」
 テイルモンが、心配そうな声を上げた。知らない間に、私はまた、涙を流していた。
「うん、大丈夫…」
 大丈夫よ。今度こそもう、大丈夫だから。
 涙を拭って、私は、ケータイを持ち直した。しっかり、返事を、打つために。
[こちらこそ、よろしくね]
 震える手で文字を打って、送信ボタンを、押し、た。
 メールを送信しました。その画面に、息が漏れた。
 送信、しちゃった。
 突き放しても、よかったのに。タケルくん離れ、するはずだったのに。
 でも、もう、タケルくんの気持ちを、無視できないよ。
 私と同じように、叶わぬ想いを、恋をし続けてくれるんだから。
 ありがとう。これからも、一緒にいてくれて。 
 つらいはずなのに、隣にいてくれて。
 ありがとう。私も、頑張るね。

「パタモン」
 僕は、ケータイをしまって、パタモンに呼びかけた。
 明るい声で、笑顔で。心から。
「帰ろうか」
 たとえ、これからも想いが届かなくても。それでも、また、近くにいられる。それだけで、希望が、溢れてきた。光が、見えてきた。
 信号が、ちょうど青に変わった。
 僕は、やっと、一歩、踏み出した。
 これからの未来は、わからないけれど。幸せなものではないのかもしれないけれど。
 でも、君と同じ世界で、同じ痛みを持って、これからも、生きていくよ。
 大好きだよ、ヒカリちゃん。


【了】



「テイルモン」
 私は、ケータイをしまって、立ち上がった。
 まだ、不安はあるけれど、でも。
「行こう」
 たとえ、これからも想いが届かなくても。それでも、向き合っていく。乗り越えていく。希望が、見えてきたの。光が、溢れてきたの。
 靴を脱いで、家に上がった。お兄ちゃんの、居ない家。お兄ちゃんを、待つ家。
 これからも未来は、明るくないけれど。幸せな未来は、やって来ないけれど。
 でも、タケルくんが私と同じ痛みを持って、これからも、生きていくなら。
 私も、お兄ちゃんを想い続けて、生きていく。


【了】






印刷所で発行した本としては、再録集、トライライト、この想いの行く先は、に続いての4冊目となります。
表紙は、プリントオンさんにデザインすべてをお任せいたしました。
内容をすべて読んでくださったのかと思うくらい、ぴったりな表紙をデザインしていただき、本当にありがとうございました…!!!
本編は、上段はタケル視点による、タケル→ヒカリの片思い、下段はヒカリ視点による、ヒカリ→太一の片思いとして掲載していました。
大好きな同時進行物です。同じセリフを同じ行に入れるので苦労した思い出。
web再録では、悩んだのですが、別掲載だと同時感無くなるし、並列掲載はまた文字数の関係で行数合わせ問題が浮上…。
結局交互掲載してしまいました。たぶんとてつもなく読みづらかったかと…申し訳ないです…。
以下、当時のあとがき掲載です。

あとがき
 お読み下さりありがとうございます。エミナと申します。
 兼ねてよりやってみたかった上下段同時進行物、如何でしたでしょうか。少し読みづらいかなとも思ったのですが、お楽しみいただけましたら幸いです。
 片思い話を書いたのは初めてだったのですが、この構成に合う話はすれ違い物かなと考えていた時に、某レストランアイドルゲームの「REVERSE」という歌を聴きまして。
 これが片思いの歌でとても綺麗で切なくて、歌詞が個人的タケヒカ像に合ってまして…。
 一気に片思い話へのスイッチが入り、そこからはもうとにかく楽しかったです!
 なかなか煮え切らない話にはなりましたが、このようなふたりも良いなと思っていただけたら嬉しいです。
 それでは、重ねてになりますが、お読み下さり誠にありがとうございました!

 またどこかでご縁がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。   エミナ

……だそうです。
余談ですが、この後私は「『REVERSE』が聴けるならお礼も兼ねてライブ行くか」とアイドルのCGライブに向かい、後に人生初の夢女覚醒をするのでした。
きっかけとは、どこにあるかわかりませんね。

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掲載日:2026/02/10