例えば、この世界とは別の世界が存在しているとしたら。
 例えば、違う僕らが存在しているとしたら。
 そこで僕らは、どういう関係なんだろうか。


  『トライライト』


「ヒカリちゃん」
 下校中、ヒカリは後ろから掛けられた声に足を止めた。
 振り返るまでもない。この声は、いつもの彼だ。
「タケルくん。いま帰り?」
 当たり前のことを言いながら振り向いた時には、タケルはもうヒカリの隣にいて。
「うん。帰りが一緒になるの珍しいね。日直とか?」
 互いにクラスも違えば交友関係も違う。用がない限りは、一緒に帰ることもそう滅多にないことで。
「ううん。違うの。呼び出しくらっちゃって」
 ため息混じりにそう言うヒカリの顔は、どこか苛立ちすら感じられて。彼女にしては珍しい顔、かも知れないが、タケルも同様の顔をして返した。
「そっか。また告白されたんだ」
 何のことだかすぐにわかったタケルに驚くこともなく、ヒカリは、「そうなの」と頷いた。またしてもため息をついて。嬉しくないわけではないが、断るだけなのに自分も傷つく気がする。あまり好きなイベントではなかった。
「ヒカリちゃん、可愛いからね」
 さらりと言った言葉に、ヒカリも特段の反応はなくて。 
 ただ、「ハイハイ」と受け流すばかり。見た目だけを褒められても、仕方がない。
「誰にでも優しいし、告白される回数も増えたよね〜」
 まるで見ていたかのように、タケルは指折り数えながら言う。入学時からカウントして、一年余りで既に両手では足りなかった。
「それはタケルくんもでしょ〜?」
 数えるタケルの顔を覗き込みながら、ヒカリは腑に落ちない顔で返した。見た目が良くて誰にでも優しいだなんて、全く以て一緒なのだから。
「僕は最近は告白されてないけど?」
 どこか自慢気に、どこかおちょくるように。タケルは軽くそう返す。ヒカリちゃんの方が人気あるね、と、笑って。
「それはタケルくんが、そういう空気を作ってるから、でしょ?」
 いろんな女の子と一緒にいて、同じくらい男の子とも一緒にいて。男女混合の大きなグループ。そこの輪の中心が、高石タケルの最近の居場所だった。クラスが違えども、それくらいは知っている。
「告白するとかじゃなくてみんなで仲良くしてるって感じだけど、タケルくんのファンは多いんだよ?」
 運動会とか行事で目立つ度に、黄色い声が飛び交うのはもはや恒例で。男子も嫉妬よりも、漫画かよ!というツッコミを入れて楽しんでいるくらいだ。
「人気者ね」
 どこか冷たい空気をまとわせて。ヒカリはふいっと、前を向いて先を歩く。
 タケルは尚顔色を変えることなく、えーそうかなー、などと軽く言いながら、すぐにヒカリの隣に追いついてくる。
「あ、考えみたら、僕いま一緒に歩かないほうがいいのかな?」
 隣に並んだと思ったら、タケルはそう問いかけてきた。あっけらかんと、どこまでも明るい声で。
「どうして?」
「だって、ヒカリちゃん告白断ってきたんでしょ?それですぐに別の男と歩いてたら、ヘンな噂立つんじゃない?」
 彼なりに気を回したのだろうが、どこか、軽い。真剣に考えている様子なのに、そんなことが起こるはずがないと、わかっているような。
「…うーん、そんなことはないと思うけど。むしろ、ここでタケルくんと離れて歩くほうが変な噂立ちそう」
 どんな噂かなんて考えてもいない様子で、ヒカリもまた、どこか軽く答える。真剣に考えているはずなのに。
「そう?それならいいけど」
 そしてまた、タケルの素っ気無いくらいの簡単な返し。
 しかしふたりは何も気に留めず、ただなんとなく、歩みを進める。
「そうだ、せっかくだから、どっか寄ってかない?」
 一緒にいられるのなら、と、タケルは軽く誘う。下校ならまだしも寄り道まで一緒となると、それこそ噂になりそうなのに。
「私は構わないけど、タケルくんのファンに怒られたら嫌だなあ」
 冗談めいた返事をしながら、ヒカリはどうしようかな、と目線を逸らす。逸らした先にはお台場の海。太陽が煌めいて綺麗だった。
「ええ〜。だからファンなんていないって」
「いるかもしれないでしょ?」
「いたとしても、怒るような子はいないよ」
「わからないじゃない」
 つっけんどんに返すものの、ヒカリの口元は笑っていた。他愛ない会話をしているのが、ただ楽しいだけなのだ。嫌われることなんてありえないと、唯一思う相手だから。
 そしてそれを、タケルは理解していた。
「仮にそんな過激派なファンがいたとしても、ヒカリちゃんは僕が守るから」
 たとえ今のグループの仲を崩壊させたとしても。それは仕方のないことだから。争いは避けたいけれど、争うのなら、負けないよ。
 さらりと言われた言葉の意味は、あまりにも明快で軽快で。奥底に、誰かに向けた、敵意が隠れていて。それに気がつくのはヒカリだけだが、ヒカリはいつでもそれには触れない。
「うーん、却って泥沼になりそうだけどなあ」
 口では渋い声を出しているが、ヒカリは笑顔を向けた。
「じゃあ、コンビニのアイスおごってくれるのなら、寄り道付き合うよ」
 ニッコリと、まるで妹のワガママのように。いたずらっこな笑みを浮かべて、ヒカリは取り引きをした。
「えー?ヒカリちゃん足元見すぎだよー。僕が断らないと思ってさ〜」
 わざと口を尖らして、タケルはちょっと引いた体勢を取った。ヒカリとの距離が、少しだけ離れる。
「ごめんごめん。その代わり、私もタケルくんに何かおごるから」
 引いたタケルに寄り添うように近づいて、ヒカリは上目遣いで笑った。腕に触れるか触れないかのところに、そっと手を伸ばして。
「ね?」
 おねだりするように、追い打ちをかけて。
「ずるいなあ、ヒカリちゃん」
 タケルはこらえ切れず前を向き、吹き出すように言った。
 どこか乾いた笑い声で、苦笑いするように。
 昔はそんな子じゃなかったのに、とでも続けるのかと、次の言葉をヒカリは待った。しかし、振り向いたタケルは、ヒカリに真剣な目を向けて。
「でも、いつか恋愛で痛い目みそうだから、気を付けなよ」
 言い方は軽いのに。至近距離で目が合って、茶化そうと思ったのに固まってしまう。ヒカリは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「大丈夫よ。タケルくんにしか言わないから」
 一瞬の隙間のあと、当たり前に、出てきた言葉。
 気心知れたひとだから。兄妹のようなものだから。親友で、仲間で、唯一の特別な人、だから。
 自然と歩みが止まって、歩道で向き合い立っている。聞こえるのは、風の音と、波の音。
 何秒経ったか、何分経ったか。
「ヒカリちゃん」
 見つめ合った後に、タケルは口を開いた。
「それ、口説いてる?」
 いつものように、軽く、明るい声。途端に、張り詰めた空気が解かれた。緩く暖かく、軽い空気が流れていく。
「まさか〜」
 ヒカリも軽く返し、笑った。目を逸らすように体の向きを変えて、コンビニへ続く道を一歩進む。
「え〜。いま僕落とされそうだったのに」
 残念そうな冗談を吐いて、タケルもまた、ヒカリの隣を歩く。
「そんなだと将来女の子に振り回されちゃうわよ」
「いまもう振り回されたんだけどなあ」
「そんなことないくせに」
 気の置けない間柄同士、冗談を言い合って。冗談ばかりを言い合って。クスクス笑って、一緒に歩く。
 ただ、それだけ。
 風が吹く。波の音が聞こえる。海が煌めく。もうすぐ、夕暮れ。


「いらっしゃいませ〜」
 コンビニに入ると、女性店員の元気な声と、流行りの歌が耳に届く。しかし二人は構いもせずに、アイスコーナーへと直行した。
「何にするの?」
「今日はこれかな〜。新作!」
 いい笑顔でヒカリはアイスを手に持つと、タケルの前に出した。
「うわ、早…。っていうか結構大きいね。食べきれるの?」
 ヒカリの差し出したアイスは、アイスとは言うものの、クリームやら苺やらが乗り、もはやパフェに近かった。
「甘いものは別腹なのっ」
 嬉しそうに言うと、ヒカリはまた別のアイスを手に取って。
「これ、オススメだよ」
 同じくパフェのような仕様のアイスで、こちらはチョコレートベース。タケルはヒカリの魂胆がわかり、苦笑いしながら頷いた。
「ひとくち食べたいってことね、了解」
「さすがタケルくん。私のもひとくちあげるね」
 味の違うものを食べれば、美味しさは増すというもの。誰かと食べるからこその楽しみでもある。
「それじゃ、レジ行ってくるから待ってて」
 ヒカリから二つのアイスを受け取ると、タケルはレジへと歩き出す。
「あ、割引券あるよ」
 思い出して引き止めるヒカリの声に振り向きながら。
「…ごめん、両手塞がってる」
 アイスを置く場所もなく、タケルはまた苦笑い。どうやって割引券を受け取ろうかと思案し始めたが、ヒカリはサッとタケルの隣に来た。
「一緒に行くね」
 その笑顔は、まるで可愛いカノジョのようで。寄り添いながら会計を済ませる姿は、可愛らしくも夫婦のよう。
「ありがとうございましたー」
 一連の流れを見ていたレジの女性店員は、乾いた笑みを浮かべていた。

「どこで食べよっか?」
 コンビニを出ると、タケルはヒカリに訊いた。あいにく店内にイートインコーナーは無い。近場の公園か、それとも。
「お気に入りの場所があるの」
 ヒカリは嬉しそうに、人差し指を口に当てて言った。ナイショの特等席だよ、と。
「案内してくれるの?」
「トクベツにね」
 歩き出したヒカリに、タケルは半歩後ろからついていく。ナナメ後ろからの目線に、どこか奇妙な懐かしさを抱きながら。
「ねえ、ヒカリちゃん」
「なあに、タケルくん」
 振り向くことはなく、軽く頭を傾けながら、ヒカリは返す。名前を呼ぶ必要もないのだけれど。
「…さっきの店員さん、なんだか苦笑いしてたね」
 タケルは、一拍おいてから、軽く言った。その一瞬の間で、ヒカリは敏感に感じ取った。タケルが、言い出す話題を変えたことに。
「いつもあのコンビニでアイス買うから、覚えられちゃったのかも」
 しかし、ヒカリは追及しない。変えたほうが良い話題なら、訊かない。
「そのうちアイスの情報とか教えてくれるかもね」
「そうね。コンビニの店員さんと仲良くなるのも楽しいかも」
「僕もコンビニ通いしてみようかなあ」
「…ナンパする気?」
「違うよ!?」
 そんなに軽く見ないでよ〜とタケルは言うが、その言い方は軽かった。自分でもそう思ったのか、ヒカリの隣に立って弁解の口を開く。
 が、ヒカリの表情を見て開いた口を尖らせた。
「…あ、からかってた?」
「べつに〜?」
「もう、ヒカリちゃんには振り回されてばかり」
「そんなあ。私だって、タケルくんには振り回されてるよ?」
「そうかなあ」
 互いに互いを振り回し、振り回されて。そんな姿を演じて。楽しんで。どこか、不思議な空回り。それでも、疑問なんて、感じてないように。
 信号が、ちょうど青に変わった。

「そういえば、最近太一さんの応援には行ってるの?」
 横断歩道を渡り終えて、タイミングよく、タケルは話し出す。二人の間で話すには、至極無難で当たり前の話題を。
「用事がなければね。タケルくんは、ヤマトさんのライブ行ってるの?」
「お客さん連れて行かないと兄貴が寂しがるから」
 笑いながら、兄の話題で盛り上がる。いつの頃からか、からかうように、楽しむように、遊ぶように、話題にした。
「でも、ヤマトさんはタケルくんさえいればいいんじゃないの?」
「あはは。そうかも」
 冗談を言いながらも、根本はちゃんと尊敬してるし憧れている。それを、まっすぐ表に出さなくなっただけで。それを、互いにちゃんとわかっている。
「ヒカリちゃんも、たまには来る?」
「そうね。それも楽しいかも。バンド名なんだっけ?」
「えーっと…なんか変わったらしいんだよねー」
「適当だなあ」
 思い出そうとするわけでもなく、曖昧にこぼすタケルに、ヒカリは笑った。自分だって、適当な返事なのに。その場しのぎか、社交辞令のように。
「今度またちゃんと訊いておくよ」
「…絶対忘れるでしょ」
「あ、バレた?」
 お見通し、と笑うヒカリに、タケルも笑った。どこか兄に対してひどい扱いではあるが、それすらも楽しそうに。自分たちの成長の証であるかのように。
「太一さんの試合も、また見たいなあ。最近サッカー見てないし」
 遠い昔を思い出すように顔を空に向けて、感傷にひたるような声で。しかし、すぐに軽い言葉をくっつけて、ごまかすように、何かを避けるように笑う。
「私も、サッカーあんまり見てないんだよね」
「ヒカリちゃんもなんだ」
「お兄ちゃんの試合以外はね。サッカー部の人にたまに応援に来てって言われるんだけど、ね」
「あ〜。友達いないと応援とかって行きづらいよね」
「それなの」
 あまり知らない人に誘われても困るよね、とため息をついて。釣られてか、タケルもため息を吐きかけた。
 しかし、息を吐く途中で止めた。
 ため息をついてしまったら、何か、とてつもなく悲しい何かが、襲ってくる気がして。
 無意識に、ヒカリとの距離が近づいた。隣を歩き、手と手が軽くぶつかった。
 一歩、一歩と歩む度に、互いの手が、触れ合う。
 幾度と無く助け合ったその手は、いつの間にか、男らしさと女らしさ、それぞれの手に変わっていて。
 自然と繋ぎたくなって、それでも互いに何もしなかった。
 ただ、コツン、と触れて、離れて。
 また、コツン、と、触れた。

「あ、こっちよ」
 触れ合っていた手を何事もなかったように離し、ヒカリは道を逸れ、海岸沿いに植えられた木々の隙間に入っていった。女子中学生が制服で入り込むには、些か違和感がある。暗いわけではないのだが、ひと目にはつきにくい。
「この木陰に花壇の跡があって、レンガに座れるの」
 ヒカリの後ろを歩きながら、タケルは周囲に目を配る。二人でいるところを噂されたら、それこそどんなことを言われるかわからない。
「ヒカリちゃんて、そういうところ、まだ子供だよね」
「何か言った?」
「べつに〜」
 暗く重く小さく呟いた言葉に、ヒカリは首をひねって訊いてきたが、タケルはただ、軽い一言で返した。
 やがてヒカリは足を止め、地面に置かれたレンガを指した。
「ちょっと狭いけど」
 木と草の間に、ひっそりとある空間。座れるのは、ひとりか、ふたり。腰を下ろすと、自然と互いの足がくっついた。
「ちょっと狭いかな?」
「ううん、大丈夫。ヒカリちゃんこそ、平気?」
「うん。大丈夫」
 ふたりきりの空間。木葉の隙間から、夕焼けが差し込む。少し離れたところには、煌めく波が。
「あ、海が見えるんだね」
「そうなの。私のお気に入りなんだ」
 レンガに座ると、ちょうど視線の先に海が見えた。ヒカリはカメラを構えるような体勢を取り、「よく来てるの」と笑った。今度見せてね、とタケルは返そうとしたが、それより先にヒカリは手に持ったアイスに視線を移した。
「それじゃあ、食べましょう」
 待ちきれない様子で、シールを剥がして、蓋を取って。タケルも急いで、蓋を開けた。甘い香りが、二人を心地よく包む。
「いただきまーす」
「いただきます」
 スプーンを開けて、ひとさじ。バニラアイスと生クリームを、ヒカリは口に入れた。タケルも同時に、チョコレートアイスを口へと運ぶ。
「う〜ん、つめたい!けどおいし〜」
「ほんと、冷たいけどおいしいね」
「甘さちょうどいいでしょ?」
「うん。甘ったるくないし、このチョコ意外とビターなんだね」
 食べながら感想を言い合えるのが嬉しいのか、ヒカリの目が輝いた。
「そうなの!だから生クリームと交互に食べるとまたおいしいんだ〜」
「ヒカリちゃん嬉しそうだね。そっちのはどう?新作だっけ?」
「タケルくんのに比べると甘いかな。でもアイスのミルクが濃厚で、苺と食べると相性抜群ね」
「ほんとに嬉しそうに食べるね…」
 タケルはまた苦笑いをしながら、ヒカリの持つアイスを見た。いつの間にこれだけアイス好きになったのかすら、知らなかった。
「なんだかパタモンに似てるなあ」
「…私が?」
「うん。パタモンは棒付きアイスのが好きだけど、意外と味にうるさくてさ」
 最近会えてないけど。と言いたげに、タケルはアイスを掬うスプーンに力を込めた。
「それじゃあ、今度会うときは厳選したのを持っていくね」
「それは楽しみだなあ」
 パクリと口に入れると、再びチョコの味が広がる。パタモンはチョコよりバニラ派かな。などと考えながら味わう。思い出の中のパタモンは、甘いものは何でも美味しそうに食べていた。デジモンはあまり好物が特化しないのかな、などと考えていたら、目の前にアイスが差し出された。
「ひとくちどうぞ」
 ヒカリに笑顔で差し出され、タケルはバニラアイスにスプーンを付けようとした。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
 しかし、そう言いながら手は止まった。タケルの手には、チョコの付いたスプーンが。一度舐めてからとも思うが、人のものを食べるのにそれは如何なものだろうか。
「どうしたの?」
 ヒカリが不思議そうに首を傾げた。本音は、早く食べてみてほしいのだろう。
「僕のスプーン、チョコだらけだけど、いい?」
 アイス好きのヒカリにとっては、バニラアイスにチョコが付くのは避けたいだろう。そんな気遣いから発した言葉に、ヒカリは少し考えたあと、自分のスプーンでバニラアイスを掬った。
「じゃあ、はい」
 ヒカリのスプーンに載せられた、少し大きめのバニラアイス。
「これなら気にしないで食べられるでしょう?」
 笑顔で口元にスプーンを差し出され、タケルは苦笑いを通り越して無表情になった。
「……これも、僕以外にはしないの?」
 いわゆる、「はい、あーん」という状態である。バカップルか酔っ払いか、ノリの良い場でしか見られなそうな光景なのに。
「しないよ」
「ほんとに?」
「ほんと。約束する」
 どこか冗談めかした言い方から、徐々に真面目になって。 
 ヒカリの顔からも、表情が消えた。スプーンを持つ手が、少し震えている。
「それじゃ、いただきます」
 凍りそうな空気をひっくり返すような明るい声で。タケルは口を開いた。
「味わって食べてね」
 ヒカリも笑顔に戻り、タケルの口へとスプーンを運ぶ。
「うん。おいしい。濃厚だね」
「でしょう?」
 なぜかヒカリが得意気に笑った。そしてまた、同じスプーンでバニラアイスを掬い、自分の口へと運んだ。おいしそうに顔を綻ばせて。
「じゃあ、僕のもあげるね」
 タケルも同じように、チョコアイスを掬うとヒカリの口元へとスプーンを運ぶ。
「はい、どうぞ」
「いただきまーす」
 ぱくりと、躊躇もなく。その場のノリのように、ヒカリはアイスを食べた。
「う〜ん、おいし〜」
 ヒカリの笑顔を見ながら、タケルもまた、ヒカリが使ったばかりの同じスプーンで、チョコアイスを食べる。
「ひとが食べてるのを見ると、つい自分も食べたくなるね」
「おいしそうに食べてると特にね」
 2人は笑いながら、自分のアイスを口に運び、また、相手のアイスに目を向ける。
「もうひとくち、ダメ?」
「仕方ないなあ」
 ヒカリのおねだりにほだされるように。そんなふりをして、タケルはまた、ヒカリへとスプーンを運ぶ。ヒカリはおいしそうにアイスを口に入れて、すぐに自分のアイスをタケルに食べさせて。
「おいしいね」
 そう言い合っては、もうひとくち、を繰り返した。
 楽しくて、甘くて。冷たくて、冷たかった。
「そういえばさ」
 何かを振り払うように、タケルは明るく切り出した。自然とふたりとも、スプーンを止める。
「最近のコンビニって、和菓子とかも充実してるよね」
 さっきはアイスしか見なかったけど、と付け加えながら、タケルは落ち着きを取り戻していく。しかし、動揺が抜けない。鼓動が早い。
「そうね。私はアイスばかり買っちゃうけど、おまんじゅうとかあるよね」
 そう返すヒカリの目は、どこか泳いでいて。話す声は、変わらず軽く明るいのに。
「そうそう。あと、お花見の季節にはお団子とか」
「季節によって変わるよね。桜餅に、柏餅。あと、おはぎとか」
 ヒカリはそう言いながら、アイスを口に運んだ。
 風が吹く。ひやりとする。内外から、冷たくなる。
「おいしそうだなって思うんだけど、あまり買う機会ないよね」
 タケルも何も気に留めず、釣られるようにアイスを食べた。芯から、冷えていく気がする。
「今度、みんなでお花見したいね」
 話題を変えるように、タケルは言う。背筋が、ひやりとした。
「私も。桜の季節は過ぎたけど、やりたいよね」
「暖かくなってくし、桜以外のお花でお花見ってのもいいよね」
「例えば、どんなお花?」
「お花は詳しくないからなあ。今度空さんにでも訊いてみようか」
「空さんにも、会ってないね」
 話題が流れ、自然とほぐれてきた。暖かくなってきた。 
 気がする。
「光子郎さんにも会ってないよね」
「ミミさんにも」
「アメリカじゃあ仕方ないよ」
 苦笑いしながらも、アイスを口に運んでいく。もう、互いのものをねだったりはしない。淡々と、作業のように食べ、話す。
「丈さんは受験だし、なかなか会えそうもないよね」
「またみんなで、デジモンたちと一緒に遊びたいのにね」
 いつになったらゲートが開くんだろう。口に出しても仕方ないから、代わりにスプーンを口に入れる。だんだん、アイスが減ってきた。
 静かになると、また、少し寒くなる。
「ごちそうさま」
 ヒカリが、からっぽになったカップに言った。
「え、早っ。もう食べ終わったんだ」
「タケルくんももう少しじゃない」
「…まあ、そうだけど」
 男の僕より食べるの早いなんて、とタケルは思ったが、言わないでおいた。また睨まれそうだ。
「何か言いたそうだよね」
「な、なんでもないよ!?」
 結局睨まれてしまったけれど、空気が暖かくなったから、いつもどおりになったから、それでいい。
 ヒカリは、カップの蓋を閉めて地面に置くと、海を見つめた。遠くを見るように、儚げに。魂を飛ばすように、力強く。悲しそうに。怖いくらいに。
「ヒカリちゃん」
 タケルの声に、ヒカリは振り向いた。
 その表情は、いつもと変わらなかった。懐かしいほどに。
「なあに?」
 気のせいだったのかと。懐かしい恐怖を隅に追いやって。タケルは、話題を探した。
「テスト対策とか、してる?」
 口から出たのは、学生としては無難すぎる話題だった。
「まだ先じゃない。タケルくんはしてるの?」
 驚くヒカリの問いかけに、タケルは首を横に振った。
「ううん。してない」
「してたらどうしようかと思った」
 笑うヒカリは、どう見ても普通の女子中学生で。たまに感じる不思議な一面なんて、どこにも思わせなくて。
「ヒカリちゃん、成績いいからさ。もうやってるのかなーって」
「タケルくんのが成績いいじゃない」
 嫌味?と不貞腐れる顔を向けられて、タケルは笑った。そうだ、このやり取りが、普通なんだ。
「そんなのわからないよ」
「でも、クラスの子たちも噂してるよ。成績優秀で容姿端麗で優しくて楽しいとか完璧だって」
「それはヒカリちゃんもおんなじ」
「そんなことないっ」
「ある」
「なーい」
「あーる」
 互いに幼稚な言い方でふざけて、顔を見合わせて吹き出した。そう、こんな時間が、楽しいんだ。
「じゃあ、今度の定期テストの順位教えてね」
 ヒカリは笑みを残しながらわざと屈み、タケルを上目遣いで見た。タケルはその目を見ながら、まったくもう、と苦笑いで答える。
「えー。それじゃあ頑張らないと」
「負けたほうがアイスおごりね」
「絶対負けられない」
 タケルは気合を入れるように、最後のひとくちを口に入れた。もう、半分溶けかかっていた。
「学年一位とか取らないでよ?」
 ヒカリは、少し脅すように戯けて言った。
「そんなの無理だよ。取れるわけないって」
 謙遜するでもなく、心からそう思っているように、タケルは笑って否定した。
「本気出したら、きっといい線いくと思うんだけどな〜」
 まるでタケルが普段勉強をしていないような言い方で、保護者のようにヒカリは言う。
「なあにそれ。ヒカリちゃんこそ」
「私は勉強してるもの」
「アイス食べてるくせに」
「いつもじゃないってばっ」
 表情豊かにむくれるヒカリの声を軽くスルーして、タケルはアイスのカップに蓋をした。
「ごちそうさま」
「…タケルくんは、普段勉強してるの?」
 スルーされたことをスルーして、なぜか疑いの目で見ながら、ヒカリは訊いた。
「え、してるよ?」
「ふ〜ん」
「なにその反応…。僕が遊んでばっかって言いたいの?」
「べつにー」
「…言ってるじゃん」
 ヒカリの目を見て、タケルはぶすっとした。普段は人に見せない表情だ。
「言ってないもーん」
 嬉しそうに笑いながら、ヒカリはまた、海の方へと目を向ける。しかし、今度は儚くもなければ、怖さもない。
「僕だって勉強してるんだからね。天才じゃないんだし」
 足を軽く崩しながら、タケルは脱力して言った。
「タケルくんは、才能あると思うけどなあ」
「才能って…勉強の?」
「うーん、ではないかな」
「えー。この流れで違うんだ…」
 残念そうにしながらも、さほど興味は無さそうに。タケルも、ぼんやりと海を見た。太陽が、傾いてきている。もうすぐ、陽が沈む。
 ヒカリは立ち上がると、写真を撮るように、手でフレームを作った。
「写真撮ったらさ、僕のブログに載っけてもいい?」
「うん、いいよ。世界中の選ばれし子供たちに喜んでもらえるような、そんな写真が撮れたらね」
 タケルの方を見ることもせず、ヒカリは簡単に承諾し、そして簡単に先延ばしにした。
「いまの写真でも充分だと思うけど」
「もっと練習してからにさせて」
 厳しい声色に本気を感じ、タケルは肩をすくめた。
「それじゃ、僕も負けないように、もっと英語力付けないと。ヒカリちゃんの写真を、しっかり紹介できるようにね」
 ヒカリは、タケルに振り向いた。顔が夕陽に照らされて、表情が読みづらい。
「負けないよ」
 ヒカリの声は、しっかりとしていた。
 どちらが先に、自分の力を伸ばせるか。それを自分で認められるか。
 まるで、ライバルのように。互いを高め合うように。
 二人は、見つめ合っていた。
 競う箇所も違うのに、こだわる部分も違うのに。
 進む未来も違うのに、いつでも一緒に歩いていけるような気がして。ずっと隣で、戦っていけるような気がして。
 例え、世界が違っても。
「ねえ、タケルくん」
 風が吹き、葉が揺れる。波の音が聞こえる。
「この先また何かが起きたとしても、一緒に頑張ろうね」
 何かを予感しているのか、いないのか。
 あくまでも明るく軽く。普段通りに、ヒカリは言った。
「もちろん。ずっと一緒に頑張ろう」
 二人で戦ってきた思い出。二人だけで戦ってきた、記憶。
 ポケットに入れたD-3。二人だけ形が違う、特別なデジヴァイスに触れて。
「どんな敵が相手だって、僕たちなら負けない。何が起きたって、僕たちは離れたりしない」
 改めて確認するように、タケルは言葉を口にする。真っ直ぐ信頼の目でヒカリを見て。それが、不安の裏返しだと、互いに気が付いていながら。
「約束する。これからも、私たちは、一緒だよ」
 自然と、ヒカリは手を差し出した。
 タケルは、ごく当たり前にその手を握った。
 向い合っての握手。滅多にする機会のない、どこか神聖な儀式。互いにぎゅっと相手の手を握り、じっと相手の目を見た。
 怖いの。不安なの。
 たまに、なにかとてつもない悲しみが襲うんだ。
 気が付きたくないのに、気が付きそうで。
 気が付きたいのに、まったく気が付かないんだ。
 ヒカリの声とタケルの声が、互いの心に入り込んでくる。
 不安に揺れる瞳。それに反して笑う口元。
 アンバランスな表情のまま、二人はそっと同時に、手を放した。
「夕陽、綺麗だね」
 目を逸らすように、タケルは海に視線を向け、なんてことない感想をこぼす。心なんて、こもってない声で。
 ヒカリは軽く頷くと、木々をかき分けて海へと走りだした。
「人もいないし、いい気持ちだよ」
 砂浜に出て、振り返って笑う。振り払うように、笑う。
 タケルも立ち上がり、ヒカリの元へと駆け出した。
 誰もいない海で。靴を脱いで、靴下を脱いで。
 そっと足先を海につけて、パシャッと音を立てて。
 二人は、海で遊んだ。まだ冷たい海で、足で水しぶきを相手に飛ばしながら。とても楽しそうに、笑いながら。
 気が付かないなら、気にしない。
 気にしないなら、気が付かない。
 きっと、明日には忘れてる。
 些細な違和感なんて、忘れてる。
 夕陽が沈んでいく。海が、少しずつ暗くなる。
 しかし二人は気にしない。ただ笑って、仄暗い海で、遊んでいた。
 

 例えば、この世界とは別の世界が存在していたとしたら。
 例えば、違う僕らが存在していたとしたら。
 そこで僕らは。

 たぶんきっと、変わらず一緒にいたのだと思う。





印刷所に頼んだ本としては、再録集を含めると2冊目になります。
tri.第1章公開後に書かれたものらしいです。
記念にtri.本を書きたくて、02が無い世界として書いてみたって感じですね。

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掲載日:2026/02/10