君と、みんなと、君と


 今ごろ、おりひめさまもひこ星さまも、
 楽しんでるのかな。


                …うん…そうだね。

 …どうかしたの?

             え?…ううんなんでもない。

 …そう…?




 あ、あのさ、たんざく、なんて書いたの?

                    えっと……



      ないしょ
                                       

 あの日の少年と少女は、
  知らない間に地面が遠くなっていた。


「いってきまーす」
 朝、今日も彼女は元気に出掛けた。
 幸せそうな雰囲気を漂わせ、駅までの道のりを歩く。
 世間の悲報を知ってか知らずか。彼女の世界に必要ないのか。
 今日も平凡な1日が始まる。

「おはよう、ヒカリ」
 駅に着くと、待ち合わせてもいないのに、毎朝出会う人がいる。
「おはよう、タケル」
 同じ時間、同じ場所。
 遅れることもなければ、早すぎることもなく。
 決まり切った機械のように、寸分狂わずこの場所に着く。
 1度偶然出会って以来、約束は無くとも、共に通うために。
 そう、行き先は同じなのだから。
「今日は数学か〜」
 駅のホームで、タケルは話し出す。
「あら、タケル数学出来るじゃない」
 ヒカリは、彼を見上げ、クスクスと笑う。
「でも、得意科目じゃないよ」
 成績優秀を否定する表情で、されど、否定せずに彼は言う。
「国語もトップだし、天才様が羨ましいな」
 冗談を言いながら、彼女はまた、クスクスと。
「それを言うならヒカリの方でしょ。僕は努力してるんだから」
 タケルの言葉に、ヒカリは笑いを止めた。
「私だって、努力してるわよ」
 むっとした可愛い顔でそう言う彼女に、タケルは笑って謝った。
「ごめんごめん」
「まったくもう」
 また、お互い笑顔になり、冗談を言っては笑っていく。
 毎朝毎朝の、お決まりの光景。
 通勤時間が重なる人は、2人を見ては、呆れて妬んで微笑んでいく。
 毎日毎日、飽きることなく、2人は一緒に歩んでいる。
 退屈という言葉など、知らないみたいに。
 単調でつまらない日々など、感じたことがないように。

 まるで、毎日が冒険のように。


 ――一九九九年――

 ざんしょお見まいもうし上げます


 たけるくんへ

 おげん気ですか? わたしはげん気です。
 なつ休みも、もうおわりだね。
 たくさんあそんだ?
 わたしは、おじいちゃんとおばあちゃんのいえにいきました。
 いっぱいあそんでもらえて、楽しかったよ。
 それから、お兄ちゃんといっしょに、プールにいきました。
 まだあんまりおよげなくて、おぼれそうになってこわかったけど、つめたくて気もちよかったよ。
 つぎは、たけるくんもいっしょにいけたらいいな。
 また、あそびにきてね。
 いっしょにいろんなところにいこうね。
 また、2人でぼうけんしようね。
                                   ひかりより



 ひかりちゃんへ

 お手がみありがとう。
 びっくりしちゃった。すごくうれしかったよ。
 ぼくもげん気です。
 なつ休み、いっぱいあそんじゃった。
 たくさんプールに行ったよ。
 らい年は、ひかりちゃんもいっしょにいこうね。
 また、お台ばにあそびにいくね。
 でも、こんどは、ひかりちゃんがぼくのいえにあそびにきてね。
 いっしょにぼうけんできたらいいな。
 ぼくのいえのちかくにね、おもしろそうなところ、いっぱいあるんだ。
 ちょっとあぶないかもしれないけど、だいじょうぶ。
 ひかりちゃんは、ぜったいに、ぼくがまもるからね。
 またあおうね。やくそくだよ。
 げん気でね。
                                 たけるより

 *  *  *

 走り回ったあの頃と、似ている行動は何一つ無く。
 それでも何かが同じだが、何が同じか考えることもなく。
 2つの葉書は、今、何処。


「大丈夫?」
 電車に乗り、数分後。
 車内はだいぶ混み合ってきた。
「うん、大丈夫よ」
 人に押されながら、ヒカリは返事をする。
 乗客同士の距離は無く、嫌が応にも触れてしまう。
 それを無理矢理引き剥がすように、タケルはヒカリを包み込んだ。
 最早動くことすら難しいこの状況。密着状態の2人に気を留める人もいない。
 誰からもヒカリの顔は見えず、タケルの体に隠れている。
 しかし、それでもヒカリの表情を想像するのは、容易なことだった。
「…今日も凄いな」
 タケルの呟きが、ヒカリの耳元で聞こえた。
「そうね。でも、嫌じゃないよ」
 彼を見上げたヒカリの顔は、暑さからか赤く染まっていた。
 いつ発車してもいいようにと彼の腕に掴まりながら、とても嬉しそうな笑顔で。
 きゅっと握られたあたたかさを感じながら、タケルは一瞬言葉を忘れた。
 赤い顔でにこにこと微笑む彼女の顔は、まるで子供のように可愛い。
 素直で愛らしく、あの頃と変わらない。
「僕も、嫌じゃないな」
 あの頃とは変わった笑顔で、彼は彼女にそう言った。
 そしてまた、2人は笑う。
 変わらぬ気持ちで、ふたりは笑う。
 電車が動いた。
 タケルは、ヒカリが倒れないように、そして他の乗客に触れないように、より強く彼女を抱きしめた。
 あたたかな腕の中、警戒するタケルを見たヒカリは、何か言いたそうにした。
「何?」
 それをすぐさま感じ取り、タケルは彼女に問いかける。
 しばらくの間、2人は見つめ合うだけだった。
 言葉を交わさずとも、お互いに想いを伝え合うように。
 互いに不安げな瞳をしていたのに、明るさの無い目をしてたのに、それは、思わず周りが目を逸らすほど、純粋で熱い視線だった。
 電車がまた、人々を揺らす。
「…大丈夫?」
 また、同じ質問が、タケルの口から飛び出した。
 ヒカリは、なんとか背伸びをし、彼の耳元に近づき、小さく言った。
「大丈夫。タケルが守ってくれてるから」
 ヒカリの呟きは、タケルだけに聞こえた。
 そしてまた、この日幾度めか、微笑みあった。
 心配事などなさそうな笑顔で。
 2人は相変わらず、ただただ幸せそうだった。
 永遠なんて続くのか。
 疑うことも知らないように。


 ――二〇〇〇年――

 7月7日(金)くもり

 今日は、お兄ちゃんといっしょに、
 太一さんとひかりちゃんの家にあそびに行きました。
 空さんやこうしろうさんもいっしょで、とってもひさしぶりだったので、
 すっごくうれしかったです。
 でも、じょうさんやみみさんに会えなくて、ざんねんでした。
 8月1日に、みんなで会えるといいな。

 今ごろ、おりひめさまとひこ星さまは、会ってるのかな。
 けんかしたり、してないかな。
 1年に1回しか会えなくて、まるでぼくみたい。
 ぼくも、パパやお兄ちゃんとあまり会えないし、
 太一さんやひかりちゃんたちにも会えない。
 今は何回も会ってるけど、そのうちきっと、会えなくなる。
 みんな、いそがしいから。
 だから、そのうち、ぼくのことなんてわすれちゃうかもしれない。
 おりひめさまやひこ星さまは、わすれないのかな。
 1年も会わないで、わすれないのかな。
 きらいになったり、しないのかな。
 大切に思わなくなったり、しないのかな。
 みんな、ふあんそうにしてました。
 みんながあつまれなくて、もっともっとあつまれなくなりそうで、かなしそうでした。
 だから、ぼくはたんざくにこう書きました。
「みんなとずっといっしょにいられますように」
 わすれたりしませんように。
 きらいになったりしませんように。
 はなれたりしませんように。
 ずっと大切に思いますように。
 また会えますように。
 ぜったいに会えますように。
 楽しくすごせますように。
 少しでも長く、みんなでいっしょにわらいあえますように。


 なかないで、ぼく。


 *  *  *


 ドアが開き、ぞろぞろと人が降りていく。
 その中に、彼と彼女の姿もあった。
 しかし、一瞬だけ、2人の間に人が割り込んだ。
 離れようもない2人なのに、多人数の力には敵わず、手が離れ、視線が合わせられない。
 ほんの5秒と経っていないのに。
 タケルの顔に、恐怖が視られた。
 その顔を、ヒカリは見ていない。
 それでも、ヒカリも恐怖の表情を浮かべていて。
 ただ2人の恐怖は、違うものへの怯えであって。
「ヒカリ!」
 彼の声が、雑踏の中、ヒカリの耳に届く。
 出来る限り急ぎ、彼女はすぐにその腕に飛びついた。
「タケル、大丈夫?」
 普段なら、彼の方が言う十八番言葉。
 彼女の方がその言葉を言うときは、決まって瞳を視ていた。
 瞳の奥に、何かを見つけたように。
「うん、大丈夫…。ヒカリは?」
 あまり大丈夫じゃない声で、タケルは彼女を気遣った。
「大丈夫よ」
 即答するものの、彼女の表情もまた、タケル同様で。
 何かを恐れる彼と、何かを心配する彼女。
 この一組の高校生を、周りはいとも簡単に避けていった。
「…ごめん」
 少しして、タケルは謝罪の言葉を呟いた。
「いいのよ」
 何に対しての謝罪か、ヒカリにはわかるらしく、励ますように言った。
「また、心配かけちゃったね…」
 これで何度目だろうかと言うように、悲しそうな彼。
「ねえ、タケル。お願い」
 真剣な瞳で、ヒカリは言う。
「私に嘘はつかないでね」
 どうせわかってしまうのだから。
 そう言うように、彼女は願った。
「うん…わかってる…。ありがとう」
 今にも泣きそうな表情で、タケルはヒカリを抱きしめた。
 どこにも行かせないように。
 不意に目の前からいなくならないように。
 誰にも手出しさせないように。奪われないように。
「泣きたかったら、泣いてもいいのに」
 冗談っぽくも、瞳を潤ませながら、彼女は言った。答えはわかっていたけれど。
「ありがとう。でも、大丈夫」
 いつもの笑顔に戻りながら、タケルはヒカリの瞳を見た。
 その潤みを消すかのように頭をなでながら、タケルは言った。
「僕、泣かないよ」


 ――二〇〇一年――

 久しぶりに会って、また2人で走り回っている。
 でも、目の前で走っている人が、ちょっとふしぎ。
 前に会ったときより、すっごく背がのびたね。
 それだけなのに、ちょっとくやしい。
 あたしものびたのに、追いつけないなんて。
「ぼく、バスケ部に入ったんだ」
 うれしそうに言っちゃって、見下ろされてちょっとくやしい。
 あたしもがんばるからね!
 たけるくんには、負けないんだから。
 次会うときにはきっと、もっと大きくなって、またあたしのほうが大きくなるの。
 もっともっとせい長して、いつかはエンジェウーモンみたいになるの。
 それで、たけるくんをびっくりさせるの。
 もう、あたしがびっくりはしないんだから。
 見ててね。
 次会ったら、「だあれ?」って思うくらい、大人になってるから。
 女の子は、十才くらいからどんどん大きくなるんだって。
 たけるくんなんて、目じゃないんだから。
 ぜっ対に、追いこすから。

 でも、たぶん無理なんだろうな。
 中学生になると、男の子が急に大きくなるんだって。
 けっきょく、最後にはたけるくんのが大きくなっちゃうんだって。
 もっともっと、追いつけなくなっちゃうんだって。
 あたしもがんばって走ってるのに。
 あたしだって、たけるくんのこと守りたいのに。
 ほら、また。
 たけるくん、転んじゃった。
 だいじょうぶ?
 たけるくんは、わらってる。
 泣かなくなったんだね。
 泣くのがまん、しなくなったんだね。
 あたしの知らない間に、たけるくんがどんどん大人になってる。
 ちょっと前まで、あたしより小さくて、すぐに泣きそうになって、かわいくって、かっこいい子どもだったのに。
 あたしだけ、おいてけぼり…。
「ひかりちゃん?」


 くやしいよ。


 *  *  *


 あと少しで学校に着く。
「やっと」と言うべきか、「もう」と言うべきか。
 そのどちらでもなく、自然に2人は歩いていた。
 手を繋ぎながらのその姿に、友人たちは声を掛けづらく、
 2人を追い越すことも出来ないまま、彼らの後ろには人が溜まっていく。
 それに気付いているはずなのに。
 2人は振り向くこともせず、ただ学校へと向かっていく。
 少しずつ、着実に近づく校舎。
 速度を緩めるでもなく、2人は当たり前に笑っている。
 それはとても日常的で、とても羨ましいもので。
 しかしそれは、とても非日常的で、不自然なものだった。
 空虚の仮面は着けてないのに。
 本心本音で会話しているのに。
 それなのに、この場にいる友人たちの誰もが、この2人の本音を知らないでいた。
 知っているのは、その『本質』のみ。
「ねえ、ヒカリ」
「なあに?タケル」
 いちいち名前で呼び合う2人。お熱い空気が流れ出す。
「ヒカリも、嘘はつかないでね」
 いきなりの言葉に、ヒカリの顔は少し驚きの表情になった。
 でも、足は止めない。
 すぐにヒカリは、笑顔に戻った。
「もちろんよ」
 約束の言葉を言い、繋いだ手に力を込める。
「でも、ヒカリ、嘘ついてるよね」
 彼は言った。足も止めずに、瞳を視ながら。
「……」
 彼女は黙った。同じく足も止めずに、瞳を視ながら。
 ただそれも、3秒もない間だった。
「くやしいなあ」
 ヒカリは、満開の笑顔で言った。
 タケルはそれを見て、一瞬、無表情になった。
「タケルには、いつでもなんでも、わかっちゃうんだよね」
 相変わらず笑顔で、クスクスと笑いながらヒカリは言う。
 その目はもう、前を向いていた。
「…ヒカリだって、僕のことは全部お見通しのくせに」
 タケルも前を向いて、笑った。
 2人をよく知っている者は、気付いたかも知れない。
 満開の笑顔で冗談を言っているのに、それがあたたかいものとは、言えないことに。

 お互いに隠し事など出来ないのは明白で。それでもたまに、つい強がっていて。
 強がって隠すことをも、嘘という罪になるのなら。
 その禁を犯してでも、言いたくないと言うのなら。
 その想いは、視なかったことにしよう。


 ――二〇〇二年――

「ヒカリちゃん」
 電話で聞いたときに、わからなかった声。
 どちら様ですか?って、思ってしまった。
 声変わりだって、君は言った。
 話してわかったよ。君だってコト。
 もう、わたしだって泣き虫じゃないけど、
 でも、前のわたしだったら、きっと、泣きそうになってたね。

「ヒカリちゃん」
 ひさしぶりに、君に会った。
 変わっちゃってた。
 せ、のびたね。
 前に会ったときより、また、のびてた。
 ほんの数ヶ月なのにね。
 また次に会ったら、もっとのびてるんだろうな…。
 うらやましいし、ちょっとだけ、なぜかうれしい。
 でも、やっぱり泣きそうになっちゃって。
 だから、わたしはにっこりと笑った。

「ひかりちゃん」
 あの声はもう、聞けないんだね。
 どこかに残っていないかな?
 ビデオにとったこと、あったかな?
 君はどんどん変わっていく。
 わたしもどんどん、変わっていく?

「ヒカリちゃん」
 この春から、タケルくんといっしょにすごす。
 きっと同じクラス。きっとおとなりさん。
 先生が、友だちといっしょにしてくれると、思うから。
 この学校で、1人だけの、お友だち。
 友だちでもあって、仲間でもあって。
 仲間だけじゃなくて、ライバルでもあったのに。
 でも、もう、わたしには追いつけない。
 声変わりもない。せものびない。走ったって、追いつけない。
 男の子には、かなわない。タケルくんには、かなわない。

 でももうこれからは、くやしくなんか、ならないよ。
 だってそれより、・・・さみしいから。


 *  *  *


 学校に着き、2人はそれぞれの場所へと向かった。
 手を解くのはあまりに自然で、誰もが見逃す一瞬だった。
「じゃあ、あとでね」
「うん。頑張ってね」
 たったそれだけの言葉を交わし、2人は別方向へと歩き出す。
 1人は右に。
 1人は左に。
 別々の道を歩き出す。
 この瞬間を何度味わったか、ヒカリは後ろを振り返る。
 そこには当然、誰もいない。
 彼の姿も、友の姿も。
 しかしそれは、ヒカリの望んだ光景だったらしく、悪魔のような妙な笑顔を浮かべた。
 ヒカリは携帯電話を取り出した。
 メールを作成するでもなく、電話を掛けるわけでもなく、
 彼女は、そこに登録された人たちの名前を見た。
『お母さん』
『お父さん』
『お兄ちゃん』
 同時に登録されたその人の写真。
 携帯を買ってもらい、楽しんで撮ったときのもの。
 あの笑顔の日常も、この居場所には欠片もない。
 ヒカリの周りに、今は誰もいないのだから。
 いつの間にか親離れをし、兄離れもした。
 頼るべきパートナーも今は遠い家の中。
 でも、このメモリーには、他の名前も沢山あって。
『京さん』
 ヒカリの手が、その人の名で止まる。
 親友もできた。大切な仲間も増えた。
 彼女は1人、奇妙に笑う。
 この学校での友も増え、こうして人は自立する。
 守られるだけの子供でなく、誰かを守りながら、歩くようになる。
 絶えず人の中にいた、あの頃の自分はもういない。
 ヒカリの目は、更に様々な名前を追う。
 思い出がよみがえり、成長した自分を感じさせ、過ぎ去りし時の長さを思う。
『岳』
 たった一文字の名前。
 君付けもされず、名字もなければ、ひらがなでもカタカナでもない。
 他の誰よりも、ヒカリはこの名前で手を止めた。
 ただ1人、あの頃より近づいた名前。
 遠くなったわけでも、変わらないわけでもない。
「恋人」
 その響きは、悔しくて寂しくて、とても嬉しくて悲しいものだった。
 本当は、ふさわしい肩書きじゃないのかも知れない。
 常に一緒で、常に独りで、常に一心同体な、時に迷惑な双子のようで。


 ――二〇〇三年――

 僕らは今、少しだけ普通の日々に戻っています。
 今もどこかで誰かが戦っているけれど、僕たちはサポートをするだけなので。
 あれからどんどん、次の人達が現れています。
 小さくて何もできなかった僕が今、先輩としてアドバイスをしています。
 正直、不思議な気持ちです。
 成長したことが素直に嬉しくて、それなのに、どこか、寂しくて。
 きっと、兄さんや太一さん達も、こんな気持ちだったのでしょう。
 何かしてあげるだけで、見てるだけ。
 何かしてあげたいのに、本当は何もできない。
 ちょっと、もどかしいです。
 変わっていくことは、とても素敵なことだけど、
 でも、今なら、わかります。
 兄さんの、寂しそうな顔の意味が。
 太一さんの、苛ついた顔の意味が。
 空さんの、切なそうな顔の意味が。
 光子郎さんの、羨ましそうな顔も。
 ミミさんの、少し嬉しそうな顔も。
 丈さんの、見守って下さった顔も。
 みなさんの、気持ちが。

 時は進んでいく。
 僕らの望む世界へ。
 そして僕らの望まぬ世界へ。
 僕はどこを歩いていくのか。
 世界の危機よりも、難しい問題かもしれない。
 僕の未来はどうなるのか。
 数年後、僕は誰と過ごしているのだろうか。
 今いる人達と、一緒にいられるのだろうか。
 不安いっぱいに、みんな進んでいく。
 冒険は、終わらない。
 それはもう、ワクワクしたものじゃないかもしれないけど。
 怖くてたまらないだけかも知れないけど。
 それでも、僕らは進み、変わっていく。
 いつか、ひとりで歩くようになるために。
 父さんにも、母さんにも、兄さんにも、頼らずに。
 憧れに近づけるように、頑張って歩く。
 少しずつでも、確実に僕は変わっているはずだ。
 僕も進化していく。

 さあ、はじまりだ。


 *  *  *


 彼女は見ていない。
 彼女は知らない。
「さて、教室行くかー」
 部活仲間に声を掛けられ、タケルも相づちを打ちながら、部室を出ていく。
 朝練の時間が終わった。教室では、もう彼女が待っているだろう。
 急ぎ足になるわけでもなく、タケルはぼんやりと歩いていた。
 友達同士が、何かの話で盛り上がっている。
 それに加わることもせず、彼はひとり考え事に耽っていた。
 気怠そうに、携帯電話を取り出して。
 中にある画像データに、彼女の写真も数枚入っている。
 そのうちの1枚を見ながら、嬉しそうとは違った表情を、彼は浮かべていた。
『彼女になりました』
 付き合って初めて撮った、プリクラの画像。
 流行りの女子高生よりおとなしいものの、らくがきに書かれた可愛い文字は、何度見てもタケルの気持ちを揺らした。
 その言葉の重みを、隣にいる友人はわかっていないだろう。
 その言葉の大切さを、同級生の何人が理解しているのだろうか。
「さっきから、な〜に見てんだよ」
 友人が携帯を覗き込んできた。
 反射的にタケルは隠したが、見せない理由はなかった。
 ただ、『彼女』という言葉の幸福さを、この友人が理解していればの話だが。
「おはよう」
「おはよう。高石」
「おー。高石ー」
 教室に入ると、あちらこちらから挨拶が飛んでくる。
「おはよう」
 笑顔でそう言いながら、タケルは席へと向かっていく。
 隅に落書きがある黒板の前を、何気なく日付を確認しながら通り、アイドルでも見るような女子組を無視し、眠そうな男子共の睨みを受けながら、タケルはヒカリの横を通った。
「お疲れさま」
 笑顔でそう言う彼女に、タケルは少し笑いながら言った。
「まだまだ終わってないけどね」

 その後2人は会話もなく、タケルはヒカリの3列後ろの席に座った。ヒカリより1列分窓側で、授業中でもその姿ははっきりと見える。
 始業までの残り数分間、その間の席には誰もいない。
 それぞれが友と共に喋る為、各自気に入った場所で集まっている。ヒカリを振り向かせれば、お互いに立たずとも話せる距離だ。
 しかし、彼女は振り向かない。
 そしてタケルも、振り向かせない。
 ナナメ後ろから視る彼女。
 実はタケルは、この距離が1番愛おしかった。


 ――二〇〇四年――

 最近は、あまり時間がない。
 毎日が忙しく、でも充実していて、でもやはり、時間がない。
 たまに時間を見つけては、パソコンに向かっていたりする。
 でも最近は、やりたいことすら、やれなくなってきている。
 中学に入り、勉強も部活も大変になった。
 友達と遊ぶ時間も、ほとんどない。
 だから、最近はあまり君とも話していない。
 クラスも違うし、登下校も部活が違うために会うこともない。
 廊下ですれ違うこともあるけれど、目が合うだけで、何も話せない。
 でも、君は元気そうだった。
 その目が言っていた。
「元気だよ。心配ないよ」と。
 その空元気が少し怖いけれど、僕も君も、中学生。
 お互いに、やりたいことがあるのは当然で。
 お互いに、そんなに心配しあうこともなくて。
 それが当たり前なのに、僕は寂しくなってしまうんだ。
 もう、僕がヒカリちゃんを守ることはないのに。
 寂しくて悔しくて、仕方がない。
 僕は、駄目なヤツだ。

 ただ妬いているだけなんだ。
 でも、君は僕のものじゃない。
 僕だけが君のヒーローじゃない。
 でも、僕は君を守りたい。
 君だけが僕のヒロインだ。
 それなのに、君を守る人は多くて。
 そして、君も守られてるだけじゃなくなって。
 今、君は誰を守り、どこに向かっているのだろう。
 君の守りたい人は誰ですか?
 訊く勇気もない僕は、本当に駄目なヤツだ。
 その目を視て、君の心を知ろうとしないなんて。
 僕の心を知ってもらいたくないだなんて。
 何度目を逸らしたのだろうか。
 わかられてしまいそうで、怖くて。
 もう、君はきっと気付いているだろうに。
 それでも君は、ずっと変わらない。
 ずっと、僕に笑顔を向けてくれる。
 その笑顔の意味を、知りたくても、知りたくないんだ。

 もしまた、時間の隙間で出会ったときは、僕と目を合わせないで。


 *  *  *


 チャイムが鳴り、授業が始まる。
 クラスメートは全員席に着き、必死に黒板の内容を写している。
 シャーペンを動かす音しか聞こえない、静かな空間。
 そこでも彼女は視線を感じる。
 この教室内にいる限り。
 彼の視界に入る限り。
 数年前から変わらず、後方より感じるあたたかな視線。
 席を立っても、歩き始めても、見つめる視線は変化せず。
 前に出て黒板の問題を解いていても、クラス中の視線の中、ヒカリにはわかる。
 その中の1人は、自分の内面を視ていることが。
 常に見守っててくれる。その瞳が、ヒカリには大切だった。
 問題を解き終え、席へと戻る彼女は、迷わず彼の目を捉えた。過去に何度も挑戦し、瞬時に逸らされ実現しなかった見つめ合い。
 タケルはもう、目を逸らさなかった。
 幸せそうな瞳を見て、ヒカリは思わず笑みがこぼれた。
 微笑み合って見つめ合う。この場にいる全員が、何度も見た光景だ。
 隠れてメールを打つ必要もなければ、手紙を回すこともない。一瞬でも目が合えば、それで全てが事足りる。
 とても可愛らしい手段なのに、当人達だけはわかっていた。
 様々な欲が溢れていることに。
 かつてはなかったその想い。
 それがある今が真実であり、それのない頃が空虚である。
 クラスメートは見ていた。
 彼らの過去を知らず、彼らの願いも知らず。
 ただ、理想とすべき人達だと。
 その無邪気さに惹かれる者、その人望に惹かれる者、その外見に惹かれる者。どの角度から見ていっても、決して粗が見えない無敵の男女。
 その万能さが羨ましく、その優しさに憧れる。
 しかし、誰もが気付いていった。幼き頃には気付かぬことに。
 彼らは何も、誰にも見せない。
 彼は彼女に。彼女は彼に。
 それ以外の誰にも、心の奥には寄せ付けない。
「これ以上は来ないでね」
 笑顔で対応されればされるほど、そう言われているようで。
 どれほど仲良くなろうとも、どこか心の奥底に、皆にはないものを抱えている。
 誰も表には出さないけれど。溝などないように振る舞うけれど。
 2人は常に、どこか特別な存在だった。
 2人のことは、2人にしかわからないように。

 クラスメートは見えていない。
 2人が拒絶するものが。心の奥にあるものが。
 とても明るい光なのに。人はそれを、闇とした。
 かつてはなかったその想い。
 それを隠す今が空虚であり、それを知らぬ頃が真実である。


 ――二〇〇五年――

 廊下でも、教室でも。
 ふと視線を感じて振り向くと、いつも目が合ってしまう。
 毎回君はすぐに逸らすけど、私は逸らさないこと、知ってるよね。
 でも、君は私を見ようとしないね。
 私は、君を見ようとしていたのに。
 気がついたら、いっつも。
 振り向いてほしくて。目が合いたくて。
 その気持ちが何なのか、そろそろ私も知っていた。
 たぶん君も知っている。ずっと前から知っていたはず。
 なのに、君は私に近づかない。
 なのに、私も君に近づかない。
 これ以上ないくらい近くにいるのに。
 これ以上は近づけない。
 近ければ近いほど、君は遠いの。
 もう、追いかけることはしないのに。
 もう、寂しくもないのに。
 時がどんどん流れる中で、偶然でもいいから。

 やっと君は、私を見てくれた。
 でも私は、その瞳を逸らしたの。
 私が何を考えているのか、私にもわからないのに。
 君に、わかってほしくなかったから。
 本当は、すっごくわかってほしいのに。
 君は、わかってくれるのに。
 私が、君とどうなりたいのか。
 その視線を感じる度に、小さい頃は思わなかった感情が、私を占める。
 違う、私は君とそうなりたいんじゃない。
 望んでない世界に、私たちは入り込もうとしている。
 これ以上先は、オトナの世界。
 でも後ろには戻れない。こどもの世界はもう、扉が閉まろうとしている。
 それでも私は1歩進めない。
 君は1歩進んだね。私を見てくれるもの。
 でも、もう見ないでほしい。
 わかってしまったから。君が私に望むこと。
 そして、それでもまだ、兄のように見守ってくれること。
 だけど、もう私も中学生だから。
 大丈夫だから。そんなに見透かさないで。
 ねえ、本当は、言いたくないけれど。

「鬱陶しいの」


 *  *  *


 チャイムが鳴り、授業が終わる。
 ため息と共に、教科書をしまう音が騒がしく響き、生徒達は互いに喋り始めた。
 彼と彼女もまた、それぞれの友達と会話を楽しんでいる。
 ふと友人の頭越しに見えた彼女の後ろ姿を、タケルは無意識に見つめた。声は聞き取れないが、笑っているようで。
 その姿を見るだけで、タケルの顔は、少し優しくなった。
「あー次は数学だー」
 やってらんねえと叫ぶ友人の声が、クラス中に聞こえた。
 何人かが、ちらりと声の主を振り返る。
 彼女も。
 振り返ったヒカリの目が、タケルの目と合った。
 どちらも驚きもせず、互いににっこりと笑いかけた。
 そしてまた、彼女は彼女の友達との世界に戻っていく。
 そしてまた、彼も彼の友達との世界へと戻っていく。
 見つめ合うようになった2人だけれど。
 その時間は、3秒を過ぎない。
 1日の時の中で、何度か訪れる偶然の時に、ほんの一瞬だけ、幸せを想う。
 それが別の想いに変わる前に、2人はいつも、暗黙に離れる。
 近すぎず遠すぎず。
 視界に入るけれど、声の届かぬこの距離は、寂しくもなく、とても心地の良い場所だ。
 これ以上は、望めない。
 ただ、2人は満足だった。
「いいなあ。ヒカリ〜」
 ヒカリの友達が、羨ましそうに声を上げる。
「え?なにが?」
「高石君のこと」
 当たり前でしょ、といった顔で、友達は彼女をからかった。
「離れていてもずっと一緒って感じよね〜」
 2人を見ていれば、共に過ごしていれば、誰もが気付く2人の関係。
「そう?ありがとう」
 顔を赤くするでもなく、ヒカリはさらりと言ってのけた。
「まったく、幸せそうなんだから〜!」
 ヒカリの背中をバシッと叩くと、テンション高く友達は言う。
 そしてヒカリは、惚気た顔で笑うと、背中に感じる視線を愛おしそうに味わった。
 今もまた、彼は彼女を見つめている。
 その思いを一粒も零さないように、見透かす瞳で。
 時にくすぐったく、照れるほど嬉しくて。
 いつでも手を握っているようで。2人でいつでも一緒に思えて。
 一心同体とは、まさにこの事のよう。
 昔からそのように感じ、疎ましく思えることすらあっても。
「あ。高石君ったら、またヒカリのこと見てる」
 友達の言葉に、ヒカリは心から嬉しそうに笑った。

 今のような気持ちに変われたことに、感謝しながら。


 ――二〇〇六年――

 君と出会ってから、もう7年が経った。
 とても長く、とても短く、色々あった7年。
 様々なことが変化し、僕らは随分と成長した。
 でも、僕と君の関係は、まだ変わっていない。
 いや、むしろ悪化したのかもしれない。
 お互いが思春期に入り、お互いが意識し、お互いが離れたく感じる。
 でも、僕は君を離さない。
 君と離れたくなんかない。
 もうすぐ、僕らは道を決めることになる。
 今のままだと、きっと僕らは、会えなくなる。
 違う道を進み、織姫と彦星程度にしか、会えなくなる。
 そう考えると、もう、今しかない。
「久しぶり、ヒカリちゃん」
 目で会話ばかりをしていた僕が、電話をした。
 きっと、目を合わせてしまったら言い出せないから。
 珍しいね、どうしたの?って訊いてくる君の声は、冷たくも暖かな天使のよう。
「うん…あのさ、ヒカリちゃんは、もう高校決めた?」
 急に、心臓がうるさくなった。
 まだ悩んでるの、という答えに、急いで言葉を返したいのに、声の出し方を忘れそうで。
「そうなんだ。じゃあさ…」
 ここまで来たら、後には引けない。覚悟して電話したんだ。
「一緒の高校、行けないかな?」
 電話の向こうが静まりかえる。
 無理な話じゃないはずだ。学力的には、君は僕のライバルなのだから。
「僕、ヒカリちゃんと一緒にいたい。来年も、再来年も、ずっと」
 見えない君に向かって、不安いっぱいに僕の口は喋りだした。
「ヒカリちゃんが好きだから」
 言ってしまった。
 ついに、やっと、口に出してしまった。
 冷えた機械と、震える僕の手。君は今、何を思っているのだろう。
『タケルくん』
 声が聞こえ、一瞬、脳裏に両親の姿が浮かんだ。
『一緒の高校、行きたいな。私も、タケルくんのこと、好きだから』

 気持ちは変わる。成長し、時が過ぎ、心は変わりゆく。
 この先、僕は大丈夫ですか?

 大丈夫。
 そう信じてる。


 *  *  *


 ガヤガヤと、学校中が賑やかになる。様々な香りが校内を巡り、笑い声が廊下に響く。
 しかし2人の姿は、そこにはなかった。
「結構涼しいね」
 夏の日差しの中、2人は校庭の木陰にいた。風が吹き、2人の弁当箱に葉が入りそうになる。
「おっと」
 急いで弁当箱を持ち、タケルは葉の邪魔が来ないうちにと、食べ始めた。
「…おいしい?」
 ヒカリは、不安よりも楽しそうな顔で彼に訊く。
「うん。いつも通り、世界一美味しいよ」
 聞き逃してしまいそうなほどサラッと言い切るその声は、それでも彼の心からの言葉で。
「ありがとう」
 まったくもう、といった表情で、彼女はいつも通りにお礼を言う。
「はい。ヒカリも」
 ヒカリの口元に差し出されたのは、箸で器用に掴まれた、黄色く綺麗な卵焼き。彼女が彼のために作り、彼が彼女のために差し出している。その絆の卵焼きを、ヒカリはパン食い競争のように、上手く口に入れた。
「おいしい?」
 どういう意図か、作り手である彼女にタケルは味の評価を訊いた。
「…うん。宇宙一幸せな味よ」
 卵の味などどこ吹く風。それは彼氏への、彼氏からの愛の味。
「これからはこの場所にしようか」
 毎日のように、校内のあらゆる所で昼食をとってきた。
「屋上も風が気持ちいいけど、競争率高いし」
 誰も知らない秘密の場所を、2人は小さな冒険のように楽しみ、探していた。
「そうね。もう大体探しちゃったものね」
 それほど広くない校内で、1年以上も過ごしていれば、自ずと場所は限定される。幾つかの候補を見つけた今、2人の楽しみは、また1つ終わりを告げることになる。
「でも、雨が降ったら来れないか」
 晴れ晴れと風の吹く日ならば、とてもくつろげる空間。
「そしたら、非常階段があるじゃない」
「冬には寒いよ」
 コンクリートの上や、青空の天井。全ての天気に対応できる場所など、当然なく。
「…なら、その時に考えましょ」
「…そうだね」
 2人は、どちらともなく笑みを浮かべた。
 また1つ、毎日の楽しみが増えた。
「こういうとき、思うんだ」
 タケルは、笑顔のまま言った。
「一緒の高校に来れて、よかったなって」
 幸せそうな2人の声は、迷いがないように風に乗る。
 その結論が、苦渋の選択だったことは、どちらも言葉にすることもなく。


 ――二〇〇七年――

 遂に、この日がやってきた。
 あの日から私は、何度も考えた。この門をくぐることを。
「僕たちも、晴れて高校生だね」
 隣で、タケルくんが言った。
 合格発表を見たときも、同じような笑顔だった。
 九十九%の嬉しさと、一%の寂しさのような。
 たったそれだけの、小さな小さな憂いなのに。
「そうだね」
 私たちは、手を繋ぐことさえもためらっていて。
「どんな人達がいるのかな」
 これから会う人達に。
「意外と、みんなに似てたりしてね」
 まだ知らぬ人達に。
「ありえるかも」
 笑いあう自分たちの姿が、どう映るのか、気になって。
 やっぱり恋人同士かな?
 楽しそうかな?幸せそうかな?
 ずっと一緒にいるように見えるのかな。
 3年間、ずっと。
 色んな人に、アドバイスをもらった。
「自分の為、将来の為の高校選びをするんだぞ」と、中学の先生から。
「2人はいつも一緒だもんね」と、友達から。
「大丈夫よ。ヒカリちゃんとタケルくんなら、そんな心配ないわよ」と、親友から。
「そこまで一緒にいたいなら、まあ文句は言わねえけど」
「でも、3年間のことだからな。よく、考えろよ」
「喧嘩しても、何があっても、後悔しないなら、いいんじゃないかしら」と、家族から。
「そんなに悩むなら、やめた方が良い。私は、ヒカリに笑顔でいてほしいから」と、パートナーから。
「ヒカリちゃんが想うままでいいんだ。無理して合わせても意味がないんだから。ヒカリちゃんが望んだ所に行くのが、1番なんだから」と、彼氏から。
 私が何を望んだのか。悩み抜いた末の結果、私は今ここにいる。
 3年後の春も、この桜を見る。そのとき、隣に彼がいるだろうか。
 ずっと一緒にいて、嫌気が差しているかも知れない。
 ずっと一緒にいて、もっと好きでいるかも知れない。

「じゃあ、行こうか」
 タケルくんが、決意か『けじめ』のように差し出した手を、私はためらうことなく取った。

 これは、ちょっとした賭け事。


 *  *  *


 チャイムが鳴って、授業が始まり、チャイムが鳴って、授業が終わる。
 毎日毎時間その繰り返しが行われる生活の中で、2人の距離は、少しずつ近づいていた。
「よっしゃー!本日の授業終了〜」
 既にクタクタなクラスメート達は、「おつかれ〜」と言葉を掛け合い、教室を出ていく。
 そこから部活に向かう者、アルバイトに向かう者、遊びに向かう者。
 ばらばらと出ていく人の中で、彼と彼女は目を合わせた。
「また、いつもの場所で」
 ヒカリの席までやってきて、タケルは一言そう告げた。
「うん。部活頑張ってね」
「ヒカリも」
 朝と同じく、言葉少なにタケルは行ってしまった。
 そのあとを、ついていきたいような、いきたくないような。
 小さい頃のように、目の前の背中を追いかけたいような。
「…行こうかな」
 ヒカリは部活仲間と共に、タケルとは逆の方向へと歩き出す。
 同じ部活を選ばなかった、その判断に後悔はなく。
 ただ、たまに少しだけ寂しさを感じ、同時に相手を想い、2人の距離はまた少し縮まる。
 たとえ目の前にいなくても、同じ建物にいる限り。
 たとえ視界に入らなくても、同じ敷地内にいる限り。
 同じ場所を居場所とし、共に生活する限り。
 2人の距離は、変化する。
 時と共に、少しずつ。
 ヒカリは、携帯電話を取りだした。
 友達との話題のためでなく、彼へのメールを送るために。
 離れて数分しか経ってないのに、会いたい欲にかけられて。
 滅多にない、珍しいこと。
 彼女が彼に、そんなメールを送るのは。
 たまに友達で、普段は恋人未満で、稀に、恋人な気持ちになる。しばらく会ってない人は多いのに、その人達より会いたくて仕方ない。
 かつては、「みんな」の中に入っていた彼なのに。
 不思議な感覚でメールを打つ彼女の目は、色気と惚気に満ちていた。
「高石君宛?」
 呆れ顔で言う友達に、ヒカリは大人びた笑顔で頷いた。
 まだまだ子供。されど、前より大人で。
 されど、やはりまだ子供な十六才。
 少しは大人になったけれど、まだまだ子供で、少しいたい。
 年相応の付き合い方なんて知らないけれど。
 会いたいものは会いたくて。見たくない心は視なくて良い。
 2人の出した、途中経過。
 賭けの結果は、まだ確定的ではないけれど。

 もう少し一緒にいたいから。
 少しでも長くいたいから。
 学校帰り、寄り道しませんか?


 ――二〇〇八年――

 彼女は待っていた。
 部活を終え、誰もいない教室で。
 1人楽しそうに、音楽を聴きながら。
 彼が勧めてくれた歌。何度も聴いた所為で、無意識に口ずさむ。
 オレンジ色の光が教室に流れ込み、眩しい夕陽が覗き込む。
 彼はまだ来ない。
 彼女は、時計を見ることもなく、ただ曲を聴いていく。
 1つ1つに、彼との思い出があり、懐かしかったり寂しかったり、嬉しかったりする。
 時に恥ずかしそうに、彼女の顔は赤くなる。
 廊下から音がした。
 近づく足音の速さは、走っているようで。
 彼女が振り向くと、急いできた様子の彼が、教室に入ってきた。
 練習でとても疲れてそうなのに、その顔は瞬く間に笑顔になった。
 彼女はその顔を見ると笑い、イヤホンをしまいながら、彼に近づいた。
 そして、何かを言う前に、彼女は少し背伸びをすると、ためらいがちに、彼の頬にと、
 唇を近づけた。
 一瞬、彼は固まった。
 その姿に、彼女はまた少し、いたずらっぽく笑う。
 照れくさそうに、彼も笑った。
 2人は、何も言わずに廊下へと向かった。
 綺麗に消された黒板の前を、何気なく日付を確認しながら通り、
 彼女は立ち止まった。
 彼も止まり、彼女の視線の先を見る。
 7が2つの日付を見つめ、彼もまた、忘れかけてた思い出が浮かぶ。
 共に作った飾り付け。上の方には届かない。
 悩んで書いた願い事。上の方にと無理をした。
 あの日の願いは叶ったか。
 あの日の願いは叶うのか。
 互いの願いは知らないけれど。
 今の望みは、同じと信じて。
 2人は、どちらともなく顔を合わせた。
 目を合わせ、問いかけるように見つめ合う。
 君の願いは何ですか?
 自分に叶えられることですか?
 2人は頷くように近づき、少ししてから、手を取り合って、教室を出ていった。

 誰もいない、2人だけの廊下。
 みんなと過ごしたい、けれど、2人だけでいたい。
 ただ、彼女が願うのは…。


 *  *  *
 

      みんなともっといっしょにいられますように
                            ひかり
                          









3冊目のコピー本。紺色の紙に穴を開けて「君と」だけ見える仕様でした。
本編は、たしかページごとに区切れるように構成していたはず。再録時に紙の大きさ変わったら区切れ目も変わっちゃって諦めたんだったなあ。
色々と紙ならではの試みがあって好きですね。内容も今見ると原点って感じです。

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掲載日:2026/02/10